中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第八章 寺社

第二節 寺院

二 近世の寺院

市内中村(中津川三三七一番地)に在る。大石山宗泉寺と称し、曹洞宗に属する。往古川上部落恵那神社の前にあり、別当も兼ね勤めていた(現在寺屋敷の地名があり、宝物として社僧当時の笏が残る)。創建年月は不明である。元和の初年(一六一〇年代)に現在地へ移転する。元録七年(一六九四)寺社奉行届出宗泉寺由緒には次の様に記されている。
 
 当寺儀上古伽藍而有今絵下旧跡中古敗壊元和年中笠翁祖寅和尚住持 開基山村周斉居士親ら此地を選び境内を寄進し堂宇を建立し仏像を安置す
 
この移転にあたり周斉居士と計り功労のあったのは川上(かおれ)原一統の二代目原五兵衛、戒名法堂建立願主春巌道栄居士である。二祖通岩宗達に続いて岩村町盛巌寺四世乾中元貞を迎えて開山とする。元貞は城主に従い浜松より盛巌寺に来たもので、よって本寺は西尾市盛巌寺である。
 伽藍は三世中興揚外秀播により完成された。秀播は末寺東円寺の開山でもある。なお本堂は明治四五年に新改築された。梵鐘は昭和二四年に鋳造されたものである。
 十王堂は寛文三年(一六六三)古橋源治郎の手により新町から移されたもので、堂は現存しないが十王像が山門の二階に祀られている。
 恵下には神坂峠より奥恵下・徳原・戸沢・手賀野斧戸に至る古道が通じていた。怡天の石はその道端にあり洪水で流されたが、
 
 近年 藪中より能き石を掘り出す 此石至極名石なり 是を取持するの家は 富長延命の現ありと云う 近年 寺の築山にありと云う
 
と文化九年(一八二一)二月に上田伴右衛門が書いている(宗泉寺所蔵山村歴代記)。この石は一時不明であったが昭和の初年中津町役場の吏員により発掘された。高さ四六cm、幅五二cm、中央に「怡天」の二字が刻まれている。怡とは喜ぶ、心和らぐ意で地上の苦を避け理想の世界を天としてこの天思想は儒教系のものであろう。
 羅漢堂は昭和七年前山大洪水により流失したものであるが、この堂はもと大橋越勝野家とその一統の寄進により当主七兵衛泰伯非業の亡者の供養のため、毎年京都より一体ずつ背負い満願した十六羅漢を祀る。このことは明和八年(一七七一)三月勧進僧龍慎の十六羅漢造請縁起、又寛政一二年(一八〇〇)三月造立とある、一二世豊雲仙隆の供養式にも見える。像の破片は拾集され、現在山門楼上にある。なお仙隆は俳諧をよくし、互融坊と号し美濃派の宗匠として知られる。
 本尊「釈迦牟尼仏 阿弥陀如来 弥勒菩薩」の三尊の他には、元禄期の涅槃像、恵那神社社僧時代の笏、伝牧渓筆の虎像大軸、山村公自筆定書、山村家歴代使用膳椀などがある。
 祭礼としては毎月一日に羅漢堂例祭、四月九日に羅漢堂大祭並びに大般若法要がある。
 歴代住職
 一祖笠翁祖寅 二祖通巌宗達
 (開山)乾中元貞 然室呑廓 (中興)揚外秀播 疑傳永信 大梁春英 大充傳光 雪嶺智国
 千鷹大樹 (重興)春充行回 豊山大年 泰賢起雲 豊雲仙隆 笑契實岩 月江仙桂
 通岩仙京 圓山實融 月桂道芳 文山豊洲 (再中興)普参大賢 大焉一雄 等外大童 大石好文(現住)

Ⅷ-22 中村 宗泉寺