中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第八章 寺社

第一節 神社

二 中世の神社

千旦林八幡神社には木彫の神像一三体(昭和四二年三月二四日市指定文化財)が安置してあり、そのうちの数体は文字の判読が可能で観応三年(文和元年)(一三五二)と、北朝年号が書かれ、檀那宗信という名も見られる。「市史上巻」には、「……宗信は 氏がはっきりしないが 恐らく土岐氏か遠山氏ではないかと思われる」(第四編中世第二章鎌倉時代)。
と記述し、武家であることを考察しているが、この地方の有力者であったことは間違いなく、当時の坂本神社は宗信によって庇護されていたと考えられる。
 また、第三章室町時代には、普門院の鰐口のことを記述し、写真が掲載されている。この鰐口には次の刻銘がある。
 「美濃那国遠山荘大井郷千旦林 普門院文明美卯六月十八日願主頼光敬白」
この普門院とは、千旦林八幡神社の神宮寺である大智山願成寺[天台宗]の僧房の一つであったとされ、他に大善坊、玉円坊など一三房が存在していた、と「美濃御坂越記」(園原旧富・明和二年(一七六五))は記述している。これらの僧房名は当時まだ地名として残っているとも書いている。
 この二つの事物から見ても、千旦林八幡神社が中世に隆盛をきわめていたことが分かる。この隆盛を裏づける事実として、室町初期まで生産活動を続けた中世窯がある。これらの中世窯は、
・茄子川地区  諏訪、明光保、三坂、広湫(四基)
・千旦林地区  後屋、与ヶ根、坂本、鍛冶平、上県一・二、中新井北一・二・三、中新井南、窯平一・二・三、沼尾、中平、矢淵(二一基)
・駒場地区   西山一・二・三、尻無
など、いずれも八幡神社より、一・五km以内の距離にある。
「美濃の古陶」(楢崎彰一監修美濃古窯研究会)によれば、
「……恵那市東南部から中津川市西南部に、白瓷窯から転化した白瓷系陶器窯が分布し、初期には椀・小皿類と若干の擂鉢を焼いていたが、鎌倉中期には壺・甕を併焼するようになり、鎌倉後期から室町初期にかけて、中央本線を越えた北方の千旦林から駒場西山丘陵に集中して、壺・甕・擂鉢を主とする生産に転換していったことが知られる。しかし、室町中期以後の古窯跡はなく、廃絶したものと考えられる。」
と生産活動の時期と製品が書かれ、これらの中世窯は、一一世紀に白瓷を焼いた永田古窯群[恵那市長島町]、正家古窯群[恵那市長島町]、それに千旦林小石塚の窯平窯の一基とは継続性があるとされている。
 これらの古窯・中世窯と古代の神社鎮産地との関連は希薄かもしれないが、
 ・永田古窯群と長田明神、窯平古窯と坂本神社・清坂明神
とは、つながりがあると推定できる。原料が得やすいという立地の条件はあろうが、経済活動が盛んと思われる窯業地帯とこの二例は、延喜式などとの時代差はあるが地域的に一致している。市内に鎮座すると推定される他の二座三社も、種々の考古学的な事実もあることを考慮し、より実証的、総合的にその鎮座地を考察することが望まれる。
 千旦林八幡神社は、その生産規模は分からないが、中世陶器の生産地としての財力を背景に興隆したのであろう。中世の神社は、この様に、新しい庇護者によって発展したと思われる。一二世紀末の鎌倉幕府の成立と共に、古代の神祇制度は衰退し、神明・八幡・熊野などの神々が氏神として勧請された。千旦林八幡神社も、檀那宗信や願主頼光だけでは、創建年代やその規模など全容を知ることはできないが、その興隆はこの地だけの特殊なものでなく一般的な傾向の中にあったと思われる。

Ⅷ-4 千旦林   八幡神社