中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第八章 寺社

第一節 神社

一 古代の神社

延喜式以降、天慶から天徳(九三八~九六〇)にかけて撰修された神名帳[普通国名を冠して呼ぶ]に記載のある神社を帳内社とよぶ。美濃国神名帳には三四五社が記載され、その内恵奈郡には次の七社が挙がっている。
 阿気明神 従四位上
 中津川明神従五位上
 恵奈明神 従五位上
 清坂明神 従五位上
 長窪明神 従五位上
 加上明神 従五位上
 鴈楢(かりす)明神 従五位上
 これら七社の座地は次の様に推定されている(恵那郡史)。
[恵奈明神] 式内恵奈神社と同神とし、中津川字恵那山頂に鎮座する。
[中津川明神] 式内中川神社と同神とし、中津川字北野に鎮座する。
[清坂明神] 式内坂本神社を同神とし、千旦林鍛冶平と茄子川字坂本鎮座の両説がある。
[加上明神] 中津川字川上恵那神社前社とする。
[阿気明神] 阿木字大門前 現在の八幡神社を充てる。
[長窪明神] 静波村[明智町]杉野長窪八幡神社を充てている。
 鴈栖明神については座地未考とある。
 以上三座七社の鎮座地についての考察は、それを証するに足る客観的な事実が見あたらず、いずれも推察の域を出ていないのが実情である。
 
 古い形態の信仰では、天から神を招木(おしろぎ)に降し、神籬木(ひもろぎ)に鏡をかけ神を迎え、神饌をささげ、玉類や衣類などを供えて祭祀を行った、といわれている(村上重良国家神道)。
 中津川において、このような古い形態の祭祀が行われたと考えられる遺跡には、神坂峠をはじめ、水またぎ、強清水(こわしみず)、それに山畑(やんばた)と平(たいら)の祭祀遺構がある。山畑は、斎場となる磐座(いわくら)の典型的な遺跡であり、平の祭祀遺構は、周囲の土を削りとって磐境(いわさか)をつくっていた。これらの遺跡から神坂越えの無事を祈る古代の信仰がうかがわれる。これらの遺跡と三座七社の鎮座地には直接の関係はなさそうだが、鎮座地を知るためには、地名だけにとらわれず、このような遺跡や遺構とのつながりも考慮する必要があろう。
 
 恵那郡史は第三篇「平安時代 郡内の諸郷」の中で、
 
 「……按ずるに当郡文化の中心は大井盆地であったであろう。……長島町中野地内能萬寺丘阜より久須見千田にわたりて大なる古墳が多数存在するより察知することができる[傍点郡史]。」
 
と、文化の中心を長島町中野[恵那市]においている。すなわち恵奈郡の中心となる郡衙の所在地と郡家郷をここと推察、設定しているのである。
 また、東山道の難所科野坂[神坂峠]を控えた坂本駅家郷については、「濃飛両国通史」と「日本地理志科」を引用し、
「……恵那山麓なる中津川域は落合辺にあたりしものと見ゆるが妥当ならんと(両国通史)。手賀野・駒場・茄子川・千旦林・等はこの頃より発達した地であろう。……豊城入彦命の裔坂本朝臣の居り所(地理志料)と記している。坂本の名は蓋し神御坂の下なるを以って名づけたであろう。」と、地名のいわれと広範囲にわたる坂本駅家郷の規模を推察している。
 祈年祭や月次の祭における官社への奉幣は、国司らが神祇官に代わって行うわけであるから、国衙や郡衙から必要以上に遠隔地に鎮座するものではなく、郡史のいう「文化の中心地」すなわち 政治的にも経済的にも優位にある地に官社が鎮座していても不思議ではない。