中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第七章 文芸・教育

第一節 文芸

二 俳諧

中津川に以哉派の結社が生まれたのは寛政の初めで、寛政五年(一七九三)には東濃中津川緑庵(みどりあん)連が「才旦」を板行している。序文は「むとし四つの春をむかへ祝へる 老えは屈む身もお曇は初日影  子伯」とあり、これに名を連ねた者は、史仲・月狂・李三・文淇・烏仙(うせん)・巴文・杜川の七名である。芦因が遷化したのは寛政一二年(一八〇〇)四月一八日であるが、「才旦」に名を列ねていないところから見ると分派していたものと思われる。
 子伯は十八屋〓二代目間十歳久伯(ひさあき)と称し、里仲の弟初代住矩の子息で、本家の嘉伯(よしあき)(十八)とは従兄弟である。十八は明和八年(一七七一)五四歳で没し、叔父里仲も没しているため、以哉派振興を計るための緑庵結成に当っては、推されて緑庵の主となったものと思われる。享保一五年(一七三〇)生で、寛政五年は数え年六四歳になり、序文に符合する。文政五年(一八二二)九三歳で没した。
 史仲は十八の子で〓六代目間杢右衛門重矩と称し里仲の孫である。別号水音亭、弘化三年(一八四六)七六歳で没した。月狂は肥田家七代目肥田九郎兵衛通潜と称し羽考の甥である。画を大西酔月に学び月嶠と号した(口絵参照)。文化六年(一八〇九)に没している。