中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第七章 文芸・教育

第一節 文芸

二 俳諧

中川神社掲額の翌年、美濃三世廬元坊の著わした三越行脚句集「桃の首途」に左の人々が入集している。この人達が美濃派に接触した最初の俳人と考えられる。
 
鶯の茶の間を覗く桓(垣)根かな    中津川松朴
三日月のひつむ山あり時鳥     中津川藤先
苗代や親仁(父)に鳥も驚かす     中津川合之
人こころにこり酒とや秋のくれ   中津川彼鳥
 
 藤先は大田南畝の「壬戌紀行」に扇屋とある旅籠の主で、享保一五年(一七三〇)同じ廬元坊の筑紫行脚句集「藤の首途」にも<莚にも屛風の名あり雛座敷>が、また元文五年(一七四〇)に岡山連中が編んだ同師の「三顔合」には<遠寺から鐘の飛んたる野分哉>の句が入集している。
 延享四年(一七四七)、京の双林寺蕉翁追善の「墨なおし」には中津川の芦因・藤先・其融・佳月・露石らが入集し、廬元坊との交遊の深さを物語っている。本町二丁目の石垣から発掘された句碑には<華は八重に咲しも人は薄着かな 廬元坊>とあり、碑陰にはほかの文字はないが美濃派の東濃伝播の一証左であろう。(現在所在不明)
 芦因は浄土真宗西生寺の第八世中興秀伝和尚で、別号を相和房という。前記「墨なおし」のほか、明和二年(一七六五)五世安田以哉(いさい)坊の「奥羽行」には里仲・羽紅(考)・藤朴らと、四世田中五竹(ごちく)坊上梓の安永三年(一七七四)の春とある「恒の誠」にも里仲・羽考と共に入集している。
 
 藤の花ときれ/\や網の跡    芦 因
 藪誉て一枝もらふ 椿かな    里 仲
 足音の自然と橋のさむさかな   羽 考
 
 里仲は新町(現藤井金物店)の十八屋〓四代目間杢右衛門矩伯(のりあき)で、別号を塩賣舎といった。穀物・味噌・醬油・塩・雑貨等卸小売を営み、旦那衆と呼ばれた豪商の一人である。前記「奥羽行」所収の中津川歌仙行を催したのも彼である。
 
 行雁や帰りは月のさかり文 里 仲
  すゑたのみあり小田の苗代   以哉坊
 気たてまて長閑な聟にわらわれて 芦 因
  広ふよく見りゃ何宗旨でも   羽 考
 三條は右へ五条は左なり     藤 朴
  夕日の朝の松に半分      十 八
 
 里仲は六〇歳で家督を五代目嘉伯(よしあき)(俳号十八)に譲り、安永三年(一七七四)六月二〇日、<ほそ落ちの瓜より味はなかりけり>と辞世を残し八八歳で没している。
 羽考は横町の旅籠加納屋中川萬兵衛政氏と称し、父は田丸屋五代肥田九郎兵衛通贒(ただ)で中川家へ養子した。年寄役も勤め、天明六年(一七八六)八月二三日五一歳で没した。その墓碑には砂丘亭嘯雨(しょうう)(萬兵衛隆嘉)筆で、<馴し世を去て涼しい世に住ん>の辞世が彫られ、現系中川克介氏宅には、<ひや/\と秋の音あり車井戸>の短冊一枚が残っている。

Ⅶ-4 羽考短冊(中川克介氏蔵)