中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第七節 茄子川村の小休所

茄子川村小休所の東西には「石拾(いしひろい)の茶屋」と「千旦林村字坂本の立場」があった。西の石拾いの茶屋は指呼の隔りであり、東の立場は、「濃州徇行記」が「それより中通りを町と云う」と記している町並はずれの土橋を渡り、急坂を登り切ったところにあった。小休所がその機能を果すようになってからは、立場と小休所が近距離にありながら同じような役割をしていたのである。
 ここで寛政五年(一七九三)から文政三年(一八二〇)迄の二八年間の御小休扣帳の記録を表にまとめてみた。扣帳に記載のない年(寛政九・一二。享和三。文化九・一三。)は表に書いてない。

Ⅵ-136 茄子川村 小休所の小休み数

 ここでの小休の特徴は「尾張徳川家(六) 紀伊徳川家(五) 彦根井伊家(四) 薩摩島津家(三) 松平上總介(四)」と利用する大名が固定化の傾向にあること、それに、文化六年(一八〇九)を除いて「御定賃銭 證文・御朱印」での通行者の小休が寛政一一年(一七九九)の日光門跡、文化二年(一八〇五)の二条御番菅沼伊賀守の二例のみで、「此後ハ献上物致可申候(日光門跡)」「ケ様な節ハ決て御酒出し可申候(二条御番)」と、献上物や酒を出さなかったことでもめごとがあり、そのことを悔んでいる。
 文化六年(一八〇九)に坂本立場が焼失し、そのために御小休所を利用した大名らは一二例におよび普通の年の六倍(平均約二件)となっている。立場焼失という事情はあるが前述のような幕府公用の通行者、日光例幣使石井宰相(証文)、伊勢上使上杉中務大輔(御朱印)、大坂加番板倉伊予守、新庄越前守(御定賃銭)が含まれ、例幣使にいたっては「右は立場儀左衛門焼失ニ付被仰付候 一向ニ御沙汰等無之御支度いらず御茶等茂格別いらず……」と無通告の小休と茶代の払いの悪さに不快を示している。
 これら幕府公用の通行者は幕府の権威をかさにきて振舞うことが多く、あまり歓迎される客ではなかった。
 享和二年(一八〇二)五月新しい座敷が出来たのを機に、帰国する彦根領主井伊掃部頭の小休伺いを与頭善右衛門に頼み、落合宿本陣井口五左衛門を介して彦根表に願い出るが、「すでに坂本立場儀左衛門に申付けてあるから以後の通行のときには頼む」との返事に「心得の為に記し置候」と文を結んでいる。翌年九月九日 彦根井伊家の棒頭が廻宿し「其節御沙汰有之……」と文化元年(一八〇四)の領主帰国には茄子川村小休所を利用することが内定した。このように小休を勧誘した例が扣帳に記録されている。また薩摩島津家の場合は寛政一一年(一七九九)例幣使をさけ小休をしている。「俄の事故献上物等なし 是は例幣使様を御よけ被遊候 此後通行の節は掃除等いたし」両家共に小休所を利用する前は坂本立場に寄ったのであろう。

Ⅵ-137 文化六年(一八〇九) 茄子川村小休所の利用者

 文化一〇年(一八一三)「……為見分相越候間宿々村々共地境へ出迎え案内可致候 其節右先例等書付可差出候……」(正月廿三日山東一郎)この触れは尾張領主齋朝(なりとも)が四月に帰国するにあたり小休所などの場所見分を目的としたものであるが、領主の中山道通行の先例を書付けて差出すように命じている。茄子川村では庄屋藤助、篠原長八郎連名にて次のように報告している。
(1) 宝暦年頃殿様の旅行のとき茄子川村では伝右衛門方にて小休されたが、だんだん困窮し(伝右衛門方か村方かは不明)天明六年(一七八六)四月、火災で町並が焼失した(小休は以後中止か)。
(2) 寛政六年(一七九四)正月高須領主松平義裕。寛政八年(一七九六)三月 紀伊領主徳川治宝が通行のとき長八郎方にて小休をした。
 この報告から、尾張領主が中山道を通行するときは、本陣や脇本陣などの休泊施設ばかりでなく、有力農民の家を利用したことがわかる。
 また天明六年(一七八六)以前の状況は不明だが、火災後は茄子川村での小休が途絶えたことが推定できる。それに寛政六~八年の小休は、尾張領主以外の小休が開始されたことを示している。
 前述のことがらをまとめると「尾張徳川家は御三家という体面を考え、立場茶屋での小休をさけ、宿間の長い中津川宿と大井宿の中間の茄子川村に御小休所を設置した。」と思われるし、その施設を他家も利用したが、いずれも大家で小休の回数も多い。また中津川宿・大湫宿間には茄子川村小休所の他に深萱の小休所があった。
 本陣が大名らの休泊施設として固定化するに伴い他の施設を利用することはなくなっていたが、だんだん諸家の財政が苦しくなると、割安な立場茶屋や尾張徳川家のように専用の小休所を利用するようになってきた。それは立場焼失による小休の増減で知れるし、座敷の新築は積極的に小休所を経営しようとするあらわれであり、焼失した翌年の小休所の小休が一例というのは、坂本立場の再建が迅速に行われた結果であろう。このようなことが本陣・脇本陣などの経営を悪化させ、宿疲弊の原因となる。そのため、文政七年(一八二四)一二月、諸大名の茶屋での小休は老中の通達により禁止されたのである(宿駅・児玉幸多)。
 この節では茄子川村小休所の名称を使ったが、これは寛政八年(一七九六)三月紀伊徳川家の提出文書に使われ扣帳初出の名称である。扣帳に書かれている名称を列記すると次の様である。
・茄子川宿 ・茄子川宿小休所 ・茄子川宿本陣 ・茄子川村 ・茄子川村百姓長八郎 ・茄子川村篠原長八郎 ・小休本陣等、
 この中には現在呼称されている「間の宿」の呼び名はなく、文政一二年(一八二九)四月の尾張徳川家休泊触の中に「……駅々本陣並間ノ宿……」とあるが宿駅の機能(第二節三項参照)のない茄子川村を「間ノ宿」と言うのは適当ではない。
 各宿場の本陣・脇本陣がその名称と共に機能を充分に果たせず本陣職が定着する以前は、茄子川村長八郎宅のような資産があり間取りの多い家が大名の本陣として休泊を引き受けたのである(日本交通史概論・大島延次郎)。本陣成立の経過を考えれば小休所を尾張徳川家が設定するのは、ごくあたり前のことで、大名が休泊する場所が本陣であることから「間ノ宿」でなく、茄子川村小休所であり、茄子川村小休本陣である。