中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第七節 茄子川村の小休所

茄子川村は尾張徳川家直轄の蔵入地、山村甚兵衛(木曽方)・千村平右衛門(久々利方)、それに旗本馬場氏の四者入相支配地であり(第二章第二節二項参照)村高一三六八石余(美濃一国郷牒)は 恵那郡内でも大きな村の一つであった。「濃州徇行記」は茄子川村の景観を次のように伝えている。「民戸は中山道筋にあり 左右町並の如く建ちならび民戸田圃共入合なり この街道西入口を鯉が平 それより中通りを町と云ふ……」と。中山道が村内を東西に縦貫しており、中通り西はずれ近くにある常夜燈は安永五年(一七七六)の建立で、「是よりあきはみち」が刻まれている。この常夜燈のある遠州秋葉道との分岐点まで中津川宿端より一里二三町一一間、ここから大井宿までは一里の距離といわれ、両宿間二里半六町は中津川・落合両宿間一里弱と比べると長丁場であった。この分岐点に隣接して茄子川村小休所があった。
 茄子川村木曽方の庄屋を勤め小休所となっていた篠原家には、中山道を通行した大名らの小休を記録した「御小休扣(ひかえ)帳」(県史・史料編近世)寛政五年(一七九三)から明治初年までの二冊が残されている。この扣帳により茄子川村小休所の起こりや性格などを小休所の実例に即して考えてみたい(寛政五年から文政三年迄を参考)。
 参勤交代のため紀伊徳川家徳川治宝(はるとみ)が中山道経由にして和歌山に向かって江戸を発ったのは寛政八年(一七九六)三月一八日のことである。治宝一行は同月二六日の晴天の午後、茄子川村小休所に着いた。小休所では先遣の役人の指示により小休のための握り飯を一三〇人前程、膳部五〇人前がすでに準備されていた。同所では土蔵の窓や戸、それに両隣に通じる戸は締切り裏木戸を施錠し、幕を張りめぐらして治宝一行を迎えた。
 治宝が小休のため席につくと小姓や御側衆は台所に来て休みをとった。紀伊徳川家の一行は夕暮近く宿泊先の大井宿に向かって出発するが、このとき見送りに出た小休所の主人長八郎に「出たか」と治宝は声をかけ駕籠にゆられ西に向かった。小休所へは「茶代金二〇〇疋(金二分)他に銀二枚」が紀伊徳川家から支払われた。この通行に際して、道中の泊所、休所(昼食をとる)、小休所を決定するため、紀伊徳川家は前年九月に三倉柳右衛門他一名の廻宿見分を始めた。この日の領主小休後の跡調べが四月二日に根来勝次郎らによって行われたが、茄子川で小休をするまでの手順は次のようになっている。
 
 寛政八年(一七九六)紀伊和歌山領主徳川治宝の帰国に際し小休に要した手順
寛政七年九月  ・三倉柳右衛門他一名、泊所、休所、小休所の見分の為に廻宿する。篠原家では宿場迄の里程を書上提出。
一〇月二八日  ・瀧川柳左衛門に宿場迄の里程を書上げ再提出。
寛政八年二月一四日  ・紀伊徳川家の江戸勘定所より定瀬兵右衛門他一名、泊所、休所、小休所を決めるため二月一五日江戸を出発し、板橋から山口迄廻宿するとの触が二月一四日の日付で出る。江戸勘定所が泊所、休所、小休所の絵図面の提出を求める。
 二月二一日  ・中山道を紀伊徳川家通行の為、尾張徳川家作事奉行衆廻宿する。茄子川村小休所では畳の表かえ、縁かえ、障子の張かえなど、費用金一分一朱と銀三匁三分。太田代官所手代竹中左兵衛随伴す。
 二月二三日  ・紀伊領主大井宿泊り。宿割奉行通行の為、長八郎村境まで送迎に出る。
 二月二四日  ・定瀬兵右衛門他一名、小休の支度につき次の申渡しをする。献上物無用のこと。小休膳部一菜にて五〇人前。にぎりめし一二〇~一三〇人前。一人二合の米を二つに握る。(後、一合を二つに握るに訂正。)香物をそえ紙につつむ。当日役人が来て支度の差図をするから準備すること。
 二月     ・二九日の日付で触来る。三月一八日江戸発駕。三月二六日茄子川宿小休所にて小休。差出人三倉柳右衛門。
 三月     ・同内容の触。村辻千右衛門、三倉柳右衛門連名。
 三月二六日  ・徳川治宝小休、暮六ツ前に大井宿に向う。長八郎御目見得す。茶代金二〇〇疋、他に銀二枚。先遣の役人が小休の世話をする。
 四月 二日  ・通行の跡調べの役人根来勝次郎他一名がくる。茄子川村小休所長八郎と書上げる。
 
 寛政八年(一七九六)二月二一日、尾張徳川家作事方役人が紀伊領主徳川治宝の通行のため廻宿見分の上修理などを各宿の本陣を始め宿泊所へ指示したが、このようなことは、御三家である紀伊家、水戸家、幕府の要職にある者、幕府に関係する高位者、それに尾張領主の通行に限られていた。
 先に紀伊徳川家の小休の手順を書いたが、他の大名の場合も簡略ながら小休所の絵図面を取ったりし小休の予約をしている。