中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第六節 主な通行・特色ある通行

七 文人・墨客の通行

中津川宿および周辺を通過往来した俳歌人、画人、儒者のうち確かな文献の現存するものを年代順に挙げることにする。そのうちある点についてはやや不確実で今後の研究に待たねばならないものもある。
 (1) 細川幽斎 天文三年(一五三四)~慶長一五年(一六一〇)天正一三~四年頃の通過と思われる。細川藤孝(幽斎)は四月末江戸を立ち、中山道を木曽路、美濃路とたどって京都に至っている。この旅行記が「玄旨法印道之記」(原名老の木曽越)である。藤孝は武将としてよりむしろ二条派正統の歌人として名高く、三条西実枝から古今伝授を受け、歌学の伝導に功績があった。天正一〇年剃髪して幽斎玄旨と改め、同一三年一〇月二日法印に叙せられた。同一五年には九州に下向し豊臣秀吉に会っているから、木曽越えはその前年あたりと推定される。
 
  つまこと云里にて 鹿のとひ行を見て
    わかれしとつまこめに行なつやまのをしかのつののほのかまふしも
  樵夫の峯よりをるゝをみて
    うちなひく山のした草かせ(ママ)かつみなからにかへる柴人
    しつの男のつま木にそふる卯のはなの雪をかろけにはらふ山かせ
  今夜はふしみのさとといふに旅宿をもとむ(新編信濃史料叢書、以下別記なきものはこれに同じとする)
 
 (2) 蒲生氏郷 弘治二年(一五五六)~文禄四年(一五九五)天正二〇年(一五九二)豊臣秀吉が朝鮮征伐の軍を起した時、蒲生氏郷は奥羽から急ぎ参加した。途中各地で歌を詠みながら信濃、木曽、美濃路と通っている。「氏郷紀行」にはつぎのように記されている。
 
  おなし国の木曽といふ所を行ほとに さひしけなる家ひとつふたつ有けるを いかなる所ととひ待れは ここなむみかへりの里といふ 跡に思ふ人なきにしもあらさりけれは おもしろき里の名なりけるものかなとおもひて
    かきりなくとほくもここに木そのちや雲ゐのあとをみかへりの里
  猶ゆき/\て美濃の国たるゐといふ所にかりねして
    かりねする宿の軒はのあれはてゝ露もたるゐの明かたのそら
 
 (3) 大淀三千風(みちかぜ) 寛永一六年(一六三九)~宝永四年(一七〇七)天和三年(一六八三)三月、俳人大淀三千風は仙台を立ち全国行脚の旅に出た。それは足かけ七年、行程三千八百余里に及ぶ大旅行で、北海道から南海、山陽、九州、山陰、四国、東海と遍歴した。旅中の発句、和歌、漢詩等を「日本行脚文集」七巻として出版した。当宿通過は第六巻[貞享三年三月~九月]に収められている。
 
  尾州への追分 中津川にかり寝して 美と信の境橋 馬籠村を過き 名におふ木曽の幽谷にかゝる 都をは花にわかれ立ちしかと 陰山余寒を通さねは 木曽路は今そ盛りなる
 
 (4) 貝原益軒 寛永七年(一六三〇)~正徳四年(一七一四) 福岡藩儒貝原益軒は貞享二年(一六八五)木曽路を通過して「木曽路之記」を著わしている。益軒の名は篤信、損軒とも号し、儒者、教育者、本草学者として幅広い学識を持ち、その紀行文は平易通俗で当時の旅人の好個の案内書となった。
 
  落合より美濃国恵那郡是より以下美濃 中津川へ壱里 落合の民家九十軒許 これより西に 猶坂々あれども既深山の中を出て 嶮難なくして心やすくなる 木曽路を出て爰に出れば 先我家に帰り着たる心地する 唐の詩人雍陶が西帰出斜谷詩に 行過嶮棧褒斜 出尽平川家 無限客愁今日散 馬頭初見米囊花 と作りしが如し 落合の南なる大山を横長嶽と云 しげ山也 苗木の城北にみゆる小たかき山の上にあり 木曽川南をながれ 飛驒川北になかる今は遠山和泉守殿居城なり 領地一万五千石附 落合と中津川の道より北に ねざめの里あり 名所也 一説に 杭瀬川の上 中森といふほとりのよしいへり(益軒全集)
 
 (5) 松尾芭蕉 正保元年(一六四四)~元禄七年(一六九四) 元禄元年(一六八八)俳人松尾芭蕉は京都から近江、美濃を経て名古屋に至り、その年の秋八月、越人と共に木曽路を通過、更科の月を賞し、下旬に江戸に帰った。「更科紀行」はこの旅の紀行文であるが、当中津川宿周辺には何の感興も催さず通りすぎている。
 
  木曽路は 山深く道さかしく 旅寐の力も心もとなしと 荷兮子が奴僕をしておくらす (中略)棧はし 寢覚なと過て猿がばば たち峠なとは 四十八曲りとかや 九折重りて雲路にたとる心地せらる (下略)
    あの中に蒔絵書たし宿の月
    棧やいのちをからむつたかつら
    棧や先おもひいづ馬むかへ
 
 (6) 各務支考 寛文五年(一六六五)~享保一六年(一七三一) 蕉門十哲の一人各務支考(東花房)は、宝永五年(一七〇八)四月、越後への旅の途中、木曽路、安曇野、善光寺を探訪している。支考は美濃派の祖として蕉風を平俗化して俳諧の普及振興に努め、連句に長歌行、短歌行などの方式を設け、又和詩を創め、殊に体系立った俳論を組み立てた。この旅行は「夏衣」として上梓されている。彼も芭蕉同様当宿については一言も触れず、木曽の棧から起草している。
 
  むかしはなにがしの法師 うき世の外のすみ所もとむとて 此道をしもたどりけむ 我は麻きぬのあせにのみ 岨のかけちのむねもぞとゞろきぬ
    梯(棧)のあればや雲にほとゝきす (支考全集・夏衣)
 
 (7) 岩田涼菟 寛文元年(一六六一)~享保二年(一七一七) 正徳五年(一七一五)夏五月、蕉風伊勢派の祖岩田涼菟は、摩詰庵雲鈴に付き添われて越後高田から木曽路に入り、千旦林の小千宅[代官越石氏の誤りか]に一泊している。雲鈴著「笈の若葉」によれば、涼菟は正徳四年卯花月朔日に湖南を発ち越後経由で奥羽に行こうとしたが、体の衰弱甚しく途中から引返し郷里伊勢に帰った。
 
  寢覚の里はむかしよりその聞え高く
    谷川の青には夢もむすはしをねさめの床と誰か名つくらん
  とは やんことなき御方の詠し給ひし所なり さるを今は門前のそは切の幻術に名ありて 旅人の立よるに手から見せたり
    そは切に昼の寢覚の若葉かな 雲鈴
  妻籠 加納木鳶亭
    むつましき妻籠や木曽の麻衣 涼菟
  千旦林 小千宅に舎る
    かうはしき千旦林やほとゝきす 雲鈴
 
 (8) 沢露川(ろせん) 寛文元年(一六六一)~寛保三年(一七四三)享保六年(一七二一)春、蕉門の俳人沢露川は弟子僧の無外坊燕説同道にて三越路を廻り、越後高田に至った。途中、善光寺、姨捨山、木曽路を経て互いに句を吟じながら十年ぶりに千旦林の越石氏宅に宿り、中津川の連衆と雅会を催している。露川は伊賀人、名古屋で数珠商を営み、諸国を巡って蕉風の普及に努めた。
 
  美濃国千旦林に至る 十年ふりにして越石氏の洗月亭に入れは 主は野遊ひに行れるよし 草鞋をとき 湯よ水よとかまひすしく 我家に入るかことし
    留守の間に得たりや庭の栬(もみじ)狩 居士
    遠山をひたす池あり庭の月  無外
  重陽の盃を此亭に把る けふや唐には高きに登るためし待れはとて 主を伴ひ 惣門に東面して眼はかりを胞衣か嶽にのほす
    白菊の九日や雪のえなか嶽  居士
    寒やみの庄司か瘦や菊はたけ 無外
  中津川の連衆跡をしたふて千旦林に来り 一等に我師の誹談を聞て句を物す
    風流の会座や美つくす菊合  同
  中津川の風人たつぬへかりけるを 其本名を忘れて直通りせしを恨る人々に
    其蔓は切れす風雅の葛かつら 居士  (北国曲巻六)
 
 (9) 伊東實臣 (生年没年共に不詳) 元文三年(一七三八)春、伊東實臣の「美濃明細記」が刊行された。原名は「百莖根」といい、全一一巻[二種あり]で、美濃におけるこの種の記録としては最古のものとされている。しかし、当地を訪れた年度は定かでない。
 (10) 横井也有 元禄一五年(一七〇二)~天明三年(一七八三)俳文「鶉衣」で著名な横井時般・也有は延享二年(一七四五)四月、国詰となって帰国する尾張侯宗勝に従って中山道経由名古屋に至り、「岐岨路記」を著した。也有は江戸中期の俳人であるが、多才多能で主君宗勝に重用せられ、用人から大番頭となり、寺社奉行も兼ねた。五三歳で隠居、以後俳人として一生を終った。
 
  十四日 大井にとまる 山中はたえて竹なき所にて桶の𥶡なといふ物も木にて営めり この宿にて初めて竹の子を調して出せるをめずらしくて
    竹の子にあふて家路もほとちかし
 
 (11) 白井鳥醉(ちょうすい) [生年不詳]~明和六年(一七六九)江戸の俳人白井鳥醉は長花坊・麦都坊を同伴して延享四年(一七四七)五月四日戸倉を出立し、坂城、上田、小諸、塩名田等の門人を歴訪した後、松本、木曽を経て関西地方に遊んだ。その著「俳諧いびきの図」によれば、かけ橋で昨年の吟を示したあとは一足とびに岐阜となっている。鳥醉は百明房とも号し、上総の代官職白井喜右衛門信興と名乗ったが、風雅に凝って代官を罷免せられ、隠居して江戸に出て、蕉風復古を唱えて活躍した。
 
  かけ橋 此処にて去年のさ月 かけ橋や蠅も居直る笠の上 と百明房が吟ありて 笠の裏に同行と百明坊が戯書せしも語りて過ぬ 蜀道の俤(梯か)を経て美濃国岐阜に至る
 
 (12) 与謝蕪村 享保元年(一七一六)~天保三年(一八三二)江戸中期の俳人ならびに画人として知られる与謝蕪村は宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を通り上京、毛越に頼った。毛越編「古今短冊集」に蕪村は跋文をかき、発句も載せているという。(星野鈴編・与謝蕪村)これによれば蕪村の当宿通過はほぼ確実であるが、詳細は今日なお不明である。
 (13) 松平秀雲(君山) 元禄一〇年(一六九七)~天明三年(一七八三)尾張領の碩学松平秀雲は官許をうけて宝暦三年(一七五三)から四か年の歳月を費し、美濃国内の尾張領を残らず巡り、宝暦六年(一七五六)二月、「濃陽志略」一〇巻を藩侯に献じた。秀雲は字士龍、号君山、富春山人、吏隠亭、群芳洞等の別号がある。幼名弥之助後太郎助、更に太郎右衛門とも称した。享保九年馬廻組、寛保三年書物奉行。藩命により「士林泝洄」[延享四年]「岐阜志略」[延享四年]「張州府志」[宝暦二年]等を撰している(濃州徇行記濃陽志略)。
 (14) 五升庵蝶夢(ちょうむ) 享保一七年(一七三二)~寛政七年(一七九五) 蕉風俳人蝶夢は蕉露を同伴して宝暦一三年(一七六三)木曽路、善光寺、姨捨、碓氷峠を経て松島へ旅行し、「松しま道の記」を著わしている。蝶夢は、京都中川の阿弥陀寺中帰白院の一一世住職で法名を幻阿といい、神楽園に五升庵を結び、芭蕉および蕉門の研究に没頭した。
 
  つとめて木曽の美坂を越るに 雨盆をうつすことく かくや露けきの小篠原はけふの事にやとつふやきて行なやむ
    谷川や蛙のすかる蓑の裾
  湯舟沢といふ処は伊勢造営の木を伐出すとて杣小屋のけふりたへす 昨日にかはりてうららかなる空にここら野馬の多くむれ遊ふは都にしらぬなかめ也
 
 (15) 園原旧富 元禄一六年(一七〇三)~安永五年(一七七六)明和二年(一七六五)園原旧富の撰になる「美濃御坂越記」が世に出ている。旧富は木曽三留野村[長野県南木曽町]天王祠の神官で、郷土の教育家として功労があり、また各種の著述で名をなした。特に「木曽古道記」「神心問答」「木曽名物記」「美濃古道記(美濃御坂越記)」が著名である。安永五年七月二日、七四歳で病没した。天明元年(一七八一)秋七月、尾張、美濃、信濃の門人らの手で顕彰碑が建てられた。撰文は旧富の友松平君山が書いている(西筑摩郡誌)。
 (16) 菅江真澄 宝暦四年(一七五四)~文政一二年(一八二九)天明二年(一七八二)五月頃、民俗学者、歌人の菅江真澄は宿願の東北、北海道旅行の準備として美濃、木曽路を歩き、その民俗的な見聞を「粉本稿」として遺している。真澄は三河の人、本名白井秀雄。田中道麿に国学を学び、和歌をよくしたが、彼の本領はむしろ民俗学で、特に東北地方および北海道は足跡至らざるなしといわれている。東濃では、土岐郡日吉村で日の玉の社、月吉村で月の玉、土岐篁箆(こうの)神社の一鎌竹と潮みつる井を写生し、恵那郡では、大井の西行庵跡と、二人で鋤を引いて畑を耕する図。信濃に入っては、馬籠の里で谷川を流れる臼の図を素描している(菅江真澄遊覧記)。
 (17) 荒木田久老(ひさおゆ) 延享三年(一七四六)~文化元年(一八〇四)伊勢内宮権弥宜荒木田久老は、天明六年(一七八六)信州の檀那巡りのため三月八日出発、同二〇日善光寺着、用済みの後北陸をめぐり八月二四日帰国している。久老は五十槻園と号し、賀茂真淵門。万葉集の研究に精進し、同門で古事記研究の本居宣長と鋭く対立した。彼の信州入りは三回に及んだが、確実なものは第一回の天明六年(一七八六)と、第二回の享和元年(一八〇一)である。「五十槻(いつき)旅日記」によって当地関係部分を拾ってみよう。
 
  一四日晴 夜明大井を立[吉蘇川に添行]中津川落合[橋あり美濃信濃の境也]馬籠 妻籠 三留野泊り 山田屋喜六宿至ってよろし 終夜河音聞ゆ
    おちたきち流るる川の河音にやすいもなさぬ旅やとりかな
 
 (18) 桃沢夢宅(むたく) 元文三年(一七三八)~文化七年(一八一〇) 天明六年(一七八六)四月七日、桃沢夢宅は京への途上、中津川で一首を吟じている。夢宅の本名は与一右衛門匡衛、隠居して茂兵衛、号夢宅、啓山、振思亭といい、信州飯島村の人である。二条派の澄月に学び、寛政一〇年(一七九八)師の後を継ぎ京にあること四年、その門人は万を数えたという。
 
  つとめて七日未明 雨ふりけれとやかて晴にけり 木曽の御坂にかかれと 聞くよりハ嶮岨にもあらす 雨つつみなともとりて山桜のさかりもこえぬ
    ここまては木曽の御坂の花の春こえ行末や夏衣きむ
   中津川原をこゆとて
    これや此春と夏との中津川花に若葉に影そ流るる(蓬牕愚藻集上)
 
 (19) 司馬江漢 延享四年(一七四七)~文政元年(一八一八) 江戸後期の洋風画家司馬江漢は長崎からの帰路を中山道にとり、中津川も通過している。江漢は本名安藤峻、江戸の人である。初め鈴木春信に浮世絵を学び、後写生画に転じ、蘭書によって独自の銅版画法を始め、更にオランダ人につき油絵を試みた。
 
  五日 上天気 明六ツ時過に出て追分に至り(中山道本道に入る)大井の間 西行塚あり 北の方を望メバ飛驒の国御嶽千峰皆雪 それより中津へ二里半六町 落合へ二里 ここより坂を登る事二十五町 馬籠宿あり泊る (司馬江漢・西遊日記)
 
 江戸へ急いでいる江漢にしては五日(四月)の行程は少々すくなすぎるとして、いろいろ推測する人がある。赤井達郎教授は途中絵を描いていたのであろうとし(江戸時代絵図中山道Ⅰ)、細野正信氏[早大講師]は、中津川の間家において江漢の銅版画が見つかり、更に川上村からは江漢から間半兵衛宛の作品引取の礼状(写)まで発見されたとその著「司馬江漢」で述べている。しかし、この細野説は確認されていない。間家では銅版画の存在を否定し[故孔太郎氏談]、また礼状も川上村原家では発見されていない(川上村教委 小県次栄氏書信)。
 (20) 谷文晁 宝暦一三年(一七六三)~天保一一年(一八四〇)寛政八年(一七九六)松平定信の命をうけた画家谷文晁は、「集古十種」の取材のため西下する際、中山道を通り、同年六月一一日落合泊、一二日中津川を経て大湫に至った(森銑三著作集)。また、文晁は「日本名山図譜」に恵那山を描いている[奈良教育大教授赤井達郎氏教示]。
 (21) 樋口好古 寛延三年(一七五〇)~文政九年(一八二六)尾張家臣樋口好古は、寛政以降尾州全土および美濃其他の尾藩領内を巡行し、「郡村徇行記」を撰した。このうち「濃州徇行記」については寛政年間に成ったと見られている。
 (22) 大田南畝(蜀山人) 寛延二年(一七四九)~文政六年(一八二三) 享和二年(一八〇二)三月二一日大阪を出発した江戸後期の狂歌師大田南畝は、淀川を舟で遡航し、大津、武佐、柏原、加納、御嵩、大井と泊りを重ね、同月二八日中津川を過ぎ野尻に宿っている。南畝は幕臣であったが、生来の反骨精神から職を退き、晩年は専ら狂歌師[四方赤良]、戯作家[寢愡先生]として生を終った。この旅行は「壬戌紀行」として出版された(新百家説林蜀山人全集)。
 (23) 秋里籬島 [生年没年不詳] 秋里籬島と画師中和は木曽路沿道の名勝地誌調査のため享和二年(一八〇二)初夏より文化二年(一八〇五)三月にかけて木曽路、中山道、日光街道を巡歴し、「岐岨路名所図会」[木曽路名所図会]を刊行した。籬島は「京の人、名は舜福、字は湘夕、京の水及び諸国の名所図会を著わす」と大日本人名辞書に記された以外は不明であるが、この書の刊行以後木曽路探勝の栞として珍重されたものの如く、島崎藤村も「夜明け前」の冒頭に、明らかにその影響をうけたと見られる記述がある。
 
  木曽路はみな山中なり 名にしおふ深山幽谷にて岨づたひに行くがけ路多し 就中三留野より野尻までの間はなはだ危き道なり 此の間左は数十間深き木曽川に路の狭き所は木を伐り出して並べ 藤かづらにてからめ 屛風をたてたる如にして其中より大巖さしでて路を遮る 此間に棧道多し(木曽路名所図会)
 
 (24) 十返舎一九 明和二年(一七六五)~天保二年(一八三一) 享和二年(一八〇二)刊「浮世道中膝栗毛初篇」の大当りに乗じて著者の十返舎一九は文化九年に「続膝栗毛三篇上下」(木曽街道)を出版、同一〇年に「四篇上下」、同一三年に「七篇上下」を出し、文政五年(一八二二)正続完結に至るまで二一年間、「膝栗毛」の一大ブームを巻き起した。一九は江戸後期の草双紙・滑稽本作者で本名重田貞一、三〇歳のとき大坂から江戸へ下り戯作に従事した。当中津川の記述のあるのは四篇である。
 
  此処にてかごの相談が出来て 北八はかごにうち乗ると 彌次郎は先へゆく やがて かごは十きよく峠にさしかゝる 此の処にて狐膏薬と云ふを売る家多し 「サアサアお買ひなさってござりませ 当所の名方狐膏薬 御道中のお足の痛み 金瘡切疵 ねぶとはれもの所嫌はず 一つけにてなほる事受合ひ 外に又吸膏薬の吸ふ寄せる事は 金持の金銀を吸ひ寄せ惚れた女中方をぴたぴたと吸ひ寄せる事奇妙希代 おたしなみにお買ひなされ」北八「いやこいつは面白え かごの衆ちと待って下せえ モシその吸膏薬は女郎買ひに行って 振られて寄りつかねえ女郎をも吸ひ寄せやすかね」膏薬や「さやうさやう したがそこに仕やうがござります そんな時には膏薬を紙へのばさずに 小判へのばしてその女郎へ張り付けてやりなさい ぢきに吸ひ寄せます」(木曽街道続膝栗毛四篇)
 
 (25) 間宮宗好[生年没年不詳] 文化一三年(一八一六)仲冬、尾張人、間宮宗好は美濃の名所、墳墓、神社、仏閣や人事等の見聞録「美濃雑事記」を版行している。宗好は尾張国丹羽郡下野村の出身であるが詳細は不明である。
 (26) 葛飾北斎 宝暦一〇年(一七六〇)~嘉永二年(一八四九)文政元年(一八一八)葛飾派の祖、葛飾北斎の「木曽街道名所一覧」が出版されている。これを以て直ちに北斎が当地を訪れたと断定するわけにはいかないが、訪れなかったと断定できる資料も今の所見出せない。識者にいわせると北斎筆の「小野の瀧」を広重は模倣したのではないかという疑問も持たれており、(岡畏三郎・木曽街道六十九次)迫真力の面から現地来訪説をとる人もあるので不確実ながら掲げておく。
 (27) 植松茂岳(しげおか) 寛政六年(一七九四)~明治九年(一八七六)文政一一年(一八二八)四月二二日江戸を立った植松茂岳は、甲州街道より飯田に入り、近郊の子弟を指導した後、清内路を越え六月一七日正家に宿り、更に一〇月五日名古屋出発、一一日落合に泊り、清内路に向っている。翌一二年にはまた三月六日江戸を立ち、木曽路を経て同月一三日大井宿に泊っている。茂岳は本名庄左衛門、本居宣長門の国学者で尾張領主に召され、藩校明倫堂教授となった。茂岳はまた尊王家として知られ、この方面の著書も多く、門人幾百なるを知らずといわれた。木曽福島の高瀬新助の妻は茂岳の女であり、又落合の俳人鈴木喜赤は茂岳に国学を三年ほど学んでいる。
 
  十七日 夜ヲコメテ清内路ヲ立 上清内路ニ至リテヤウヤウ空シラミヌ 雨降リ出湯舟沢越ヲス 手向過ルヨリ雨シケク篶生繁リテ見エヌヲ カラウシテ越ハテヌ 湯舟沢村ヲ過テ落合の宿ニ至ル 井ノ口五左衛門ニ立ヨリテシバシ休ミヌ 今日ハ正家村ニ宿ル(伊那史料叢書)
 
 (28) 安藤広重 寛政九年(一七九七)~安政五年(一八五八)天保六年頃から数年間、池田英泉・安藤広重の筆になる風景画「木曽海道六十九次」が連続して出版された。当初は英泉一人の作であるが、途中から広重と英泉の交互執筆となり、最後には広重の単独執筆で完結した。英泉筆二四枚、広重筆四六枚、別に中津川の変り図一枚計七一枚である。この広重については、実地を訪れることなく制作したのではあるまいかという説がある。中津川市出身の赤井達郎奈良教育大教授によれば、「広重が確実に中津川を通ったとは言えない」理由として左の三点が挙げられるという。
  ①広重が「木曽海道六拾九次」を描いたのは、天保九年前後から天保一三年の間というのがほぼ定説である。この間に中津川に来ているとすれば、天保一二年甲府への旅の時であろう。しかし、この時の日記[四月と十一月の分のみ]には、、美濃まで足をのばしたことは書かれていない。四月から一一月までの間に信濃から美濃まで旅したとも考えられるが確証はない。
  ②広重や北斎の名所絵のなかには、現地に赴かないで、名所図会などによって描いたものがかなり多く「六拾九次」の絵も現地に立たねば描けない絵ではない。
  ③嘉永四年ごろの狂歌本「岐蘇名所図会」最晩年の三枚続き「木曽路之山川」など江戸や東海道についで中山道、木曽路への関心をもっていたようであるが、広重の中津川宿へ来たと断定するためにはいまひとつ確実な資料が必要であろう[昭和五五年八月一八日赤井達郎教授寄稿]。
 (29) 市川団十郎(七代目) 旅興行の帰途、雲助の難にあった団十郎が、落合宿の上田豊蔵や本陣の助けにより、神坂峠から信州伊那方面へ逃げのび、無事に江戸へ帰着できた。時期については、天保十二年(一八四一)、嘉永三年(一八五○)、嘉永4年(一八五一)諸説がある。
現在、上田家、落合本陣井口家には団十郎の書状とお礼の煙草盆や扇が所蔵されている。
 
   落合のあひをこほさぬ御贔屓やひく網に海老はすくはれにけり  寿海老老人白猿  (落合本陣井口家所蔵「扇面」から)
 
 (30) 吉田松蔭 天保元年(一八三〇)~安政六年(一八五九)嘉永六年(一八五三)三月一六日、長州の吉田松蔭は中津川で午食をとり木曽路に向っている。松蔭著「癸丑遊歴日録」より引用してみよう。
 
  十六日 雨已にして止む 終日陰翳 大湫を発して大井に至る この間道の左に僧西行の墓あり 中津川に至りて午食す江戸の人田辺定輔に逢ふ 定輔は村瀬誨輔の二子なり 相伴ひて行く 落合を経て馬籠に至る 此の間を美濃信濃の境と為す 妻籠を経て三戸野に宿す
 
 (31) 小林一茶 宝暦一三年(一七六三)~文政一〇年(一八二七)一茶の足跡については、野尻に来泊し、短冊を遺していることから当中津川界隈まで来た可能性も考えられるが、現存する文献による限り確証を得るまでに至らない。
 (32) 岡田文園 [生年没年不詳] 天保初年頃から万延元年(一八六〇)まで約三〇年を費して「新撰美濃志」三〇巻が世に出ている。編者は文園・岡田啓といい、尾張領徳川家の命によって、植松茂岳・中尾義稲・深田正韶らと共に天保一四年に完成した「尾張志」の余録として調査されたものである。
 (33) 富岡鉄斎 天保七年(一八三六)~大正一一年(一九二二) 尊王家、南画家、書家として幕末から明治時代にその名を馳せた富岡鉄斎が信濃浪合村の尹良親王遺跡踏査のため来たのは明治八年(一八七五)七月一日である。鉄斎は中津川の肥田通光宅に一泊し、湯舟沢村経由で浪合村に向っている。
 
  七月一日 大井出立一里茄子川村 此所岩村ノ道秋葉参詣路トス壱里半 中津川ニ至逆旅肥田九郎兵衛ニ立寄 浪合道ヲ問フ 曰湯舟沢ニ至ル路「神坂ミサカ越ト云 是ヨリ浪合至凡□里浪合也ト 其前ニ曽原村箒木ノ在ル処也 尤教導者一人ヲ召連行可 今日ハ時刻遅シ明早天ニ発スベキ也 仍テ此宿 此神坂古来ノ信濃飯田ニ出ル街道而中世街道変シ又此路通行スルモノナシ 仍所ノ者ト雖モ不知但極難処ニテ健足者一日ニ達スヘシ 否ハ中間一泊スヘキ無ト主人咄」(村沢武夫・鉄斎と飯田)