中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第六節 主な通行・特色ある通行

六 幕府天文方役人の通行

寛政一二年(一八〇〇)の蝦夷地の測量から始まる伊能忠敬らの全国測量の旅は、文政元年(一八一八)の忠敬の死後も門人たちによって続けられ、文政四年(一八二一)遂に「大日本沿海輿地全図」を完成、その偉業は成しとげられるのである。
 この地方の測量は、文化六年(一八〇九)の一〇月に測量方役人の水野要助、青木勝次郎、下河辺政五郎。上役の坂部貞五郎、伊能勘解由(忠敬)ら一行一七人により、中山道と他の要路の里程が測量された。
 このとき、手金野村他三か村は天文方役人を馬籠宿へ出迎えに行き、中津川宿本陣にて村況を書き上げたものを提出している。また手金野村庄屋は測量の実際を本陣内、翌日には手金野村境の新茶屋まで町間打ちに随伴しながら見学している。
 天文方の道具として、梵天(一五本) 天眼鏡(一本) せんりゆう(一つ・[是も目鏡と但書あり]) 磁石(四つ・[是ハ御自身持参]里数を打つ大縄・小縄[この人足一〇人]が記録されており、この測量・通行に要した人足は「手金野 駒場 千旦林 茄子川」四か村共に役人四人、人足一二人の都合六四人で中津川(川上川)の橋場より大井村境まで継ぎ立てた(手賀野吉田家文書)。
 中津川宿より大井宿まで来た天文方一行は岩村城下まで測量の足をのばすが、道筋の中間に当る飯沼村では一〇月八日より村と村を連絡する「七里役」を頻繁に隣村へ差し向けている(Ⅵ-134表参照)。

Ⅵ-134 七里役の行先と回数

 一〇日の飯沼村の弁当接待には御立見として、天文方役人の動向を知らせるための物見役が岩村、妻神、橋場(阿木)、阿木村境に各一名を配置した。また九日の道作り人足五六人。東野村より阿木村までの人足九人は、一人宛一〇〇文の賃銭をもらっている。一〇日には頭分を含めて五七人の人足が岩村より大井宿まで通しで勤めている。
 測量御役人様御弁当割として「給仕四人 茶方二人…」と、九役二八人が決められ、村方役人五人は帯刀(脇差)してその役を勤めている。役割の中には天文方役人の食事をとる飯沼村神明社の森とその道筋を掃除する役割もあった。この天文方通行に使われた諸費用三貫一八八文の内訳はⅥ-135表の通りである。

Ⅵ-135 天文方諸入用の内訳 (飯沼村)

 諸入用の内訳にも見られるように、夜着、ふとん賃五六文。それに宿入用四〇〇文が支払われている。これは天文方役人の一部が飯沼村で宿泊したとも考えられるがくわしいことはわからない。
 天文方の移動の順序と人足数は次のようである。御払い(先払い)ほうき持二人、御払い(羽織・脇差)一人、梵天持一人、間縄五人(長縄の時は人足一〇人)、縄持一人、間さお持一人、けんばん持二人、後払い(羽織・脇差)一人、鶯持一人となっており、他に人足五~六人と弁当持三人が必要であった(小田原・可知家文書)。
 手金野吉田家文書には、中津川宿から大井宿までの日程などが書き留めてなかったが、九日は大井から岩村翌一〇日は岩村から大井と天文方が通行しており、このことから考えると中津川宿泊は七日で、八日には大井宿へと向かったと考えられる。
 天文方役人の通行は、幕府巡見使に匹敵し、人足数は大通行と同じである。文化六年(一八〇九)の秋、伊能忠敬は日本全国を測量するため、この地方を確かに通行したのである。