中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

五 両宿と助郷村の争い

尾張領主宗勝通行の二年後、即ち延享四年(一七四七)の大坂御定番の通行の時であった。この継立をめぐり両宿が尾張領助郷四か村を郡奉行所へ訴え、四か村の庄屋・組頭・人馬支配人が、郡奉行所へ召喚され叱責を受けた。この御定番継立の一件を宿と助郷村紛争の一例として取り上げた。
 大坂御定番酒井飛驒守の一行が中津川・落合両宿を通過したのは七月二九日から八月三日の四日間であった。その繁忙な通行の様子が、「ちょぼくれ」にうたわれている。
「(前略)見なさい聞かっしゃい 隣のそこらのあたりの中津で 今年の八月大坂番衆が来るやら、やくたいにゃあとて 昼から夜から朝から晩まで めったにやたらにお役が当って、近所も向いも雇をするやら雇を取るやら(中略)」と、少し誇張気味と思われるが、助郷に狩り出された者の気持を率直に表現している。
 この大坂御定番の継立は人馬触れを受取った段階から問題があり波乱含みの継立であった。茄子川村では人馬触れの割当てが妥当かどうかを吟味し、他の尾張領三か村と、助郷人馬の勤め方、両宿の助郷村に対する態度(支配)・人馬割り(内容不詳)に付いて協議申合せをし、その上で四か村の人馬支配が両宿と事前に継立の打合せを行なっている。「段々詮議候所」と、こまかな内容は分からないが人馬割りについて不審な点を指摘し交渉している。
 二年前の四月尾張領主が上国したときのように、苗木領助郷八か村は「木曽川が増水し馬を乗せる舟が出ない事」を理由に、人足だけを助郷の勤めに出した。このため八か村の不足馬を補充するについて落合宿問屋は同宿村内で、不足馬を補充し雇うことにするが、尾張領四か村は次の様な理由をあげ、
(1) 落合宿問屋が勝手に八か村分の馬を落合宿で雇うと決めたこと。
(2) 八か村以外の助郷村へ必要以上に馬を割当て、継立の残り馬を落合宿の雇馬として、八か村より雇賃銭を受取るのではないか。
 両宿問屋が不正を働くものと考えて納得しなかった。正徳二年(一七一二)中津川・落合両宿と助郷一三か村は苗木領八ヶ村の木曽川出水による人馬不勤と急場の際の岩村領阿木村を含めた不勤の場合の取決めをしている。
① 苗木領助郷八か村不勤のとき、駒場村、手金野村にて人馬を雇う(両村で雇いきれない場合は宿が雇う)。
② 八か村は雇賃銭の他、本馬一匹四〇〇文、人足一人一〇〇文を駒場・手金野両村へ支払う。
③ 右 雇銭は宿が受取り両村へ渡す。
と、申合せている(市岡家文書)。この大通行の不足馬が駒場村、手金野村で雇えなかったのか、何の思惑が両宿にあったのか、馬を雇うことのわけをはっきりさせないため「(前略)四か村不得心勿論割付之人馬茂賃銭なくてハ一切出申間敷旨ニ而大分人馬残り申候 とかく両宿問屋中支配不埓之趣ニ相見申候」と、宿に対して強い不信をいだいている。
 七月二九日の継立は上の表の様になり、助郷側から見た史料では相当過剰な寄人馬であり、両宿と四か村の争点となった原因であった。助郷側がみた継立の実情と寄人馬の間の差が余りにも甚しく「支配方ニ非義有之様ニ相見申候(中略)誰ぞ利潤ニ相成見へ候事」と、宿人馬支配を非難し信用していない。

延享4年(1747)7月29日 落合宿に詰めた人馬と継立に必要な人馬

 両宿問屋は二年前領主宗勝上国のときの失態を再び繰返したくないとの考えか、また領主通行の時のように尾張徳川家の威光で継立てが出来ないと見てか、助郷人馬を必要以上に集めたのではないだろうか。そのことが助郷四か村に、「正徳の申合せを無視し川北八か村と裏取引をし両宿が不正をしている」と疑われる結果になったのだろう。
また助郷人馬は、人馬触れより多く集めるという慣行があったかも知れない。
八月一日 助郷村八三〇〇石に、
・人足二五〇人余。・本馬四二匹余の人馬触れがあり、助郷村々は触通り宿に詰めたが、午後になって、馬止めの触れが村々へ廻されたり、この日の継立人足も約一八〇人で間に合い、四か村は相談申合せの上、八月二日の勤め人馬は、人足は一〇〇石に一・五人割、馬なしとした。
「…是ニ而間合い申候哉 回ふれは参らず候 これに依り 三日晩馬籠泊りニ壱人半ニ遣し 馬ハ遣し申さず候」と八月三日の勤人馬も二日同様にしたのである。
 このように四か村は助郷人馬を両宿が必要以上に集めたことに対処したが、木曽川出水で馬は不勤という川北八か村は別として、残る一村阿木村が四か村に同調したかは分からない。幕府の機関の一つである宿の権威が無視されたことは、助郷村から人足として出勤した者の態度にもあらわれている。
 八月三日 茄子川村から来た人足六人が宰領(通し日雇人足の頭)たちと口論になり、その場はさして問題にならなかったが、落合宿の忠蔵が宰領たちに中津川宿まで付添い「人足が不調法である」と届け出たため、落合宿問屋弥左衛門、中津川宿問屋長右衛門が宰領たちへ「断り一札」を差し出し「誤證文」を両宿へ出すよう茄子川村へ申し入れたが茄子川村は証文は書いたが両宿へ差し出さなかった。