中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

四 助郷制度のゆきづまり

(二) 文久三年以後

慶応二年五月に決った当分増助郷は、翌三年一〇月限りで大政奉還のため免除となった。助郷模様替えの話も助郷村へ入ってきた。こうした中で慶応四年(明治元年)二月の東山道鎮撫総督の東征に、福岡村だけで同月二三日に一七五人の人足を出勤させており、同年正月より四月までで一三三二人の人足を落合宿に出勤させている。落合宿助郷全体では人足一三九三八人、馬四六九匹で、人足は百石に付一六八・二人、馬は百石に付五・六五匹(Ⅵ-133表参照)と伝馬大当りの状況は続いた。

Ⅵ-133 明治元年 助郷勤人馬 落合宿

 明治元年五月、川北八か村は、助郷模様替えに当って、助郷大当りの節に助郷村の負担を軽くしてくれる苗木領内の平均割の対象になる村むらは、手明村ということで、助郷を割当てないようにすることを考えて欲しいと、元禄七年以来の助郷村とその出勤の特色をあげて嘆願している。
 この嘆願が十分に認められたかどうかははっきりしないけれども、「(明治元)辰より(明治八)亥まで中津川落合両宿伝馬諸勘定帳」(古田家文書)によると、越原・神土・柏本・犬地・中野方・中屋・福地・黒川各村などが伝馬出金をしているから、八か村を助ける立場で続いたようである。従って苗木領内全村が江戸時代後半から明治にかけて準助郷村だったともいえる。
 明治維新となって、中津川・落合両宿助郷一三か村はどうなったか、明治元年九月「御一新」によって、宿助郷組替えとして、辰の五月より巳の五月の一か年間について 次のように指定し、各村庄屋、組頭、百姓代連署の上提出するよう指示している。
 恵那郡の内二九か村、可児郡 一三か村、加茂郡 一一か村、郡上郡 二一か村、土岐郡 二か村、尾張丹羽郡二五か村、同中島郡 四か村、同春日井郡 三か村、計一〇八か村 (村名略)
 このように助郷は、恵那郡から尾張国内の村むらまで、計一〇八か村を指定してつづけられた。
 明治五年(一八七二)に「(明治五)申五月一三日 長右衛門、伝馬廃止に付諸勘定皆済し 御達の節」(中津川・落合両宿伝馬勘定帳・立教大学蔵)として、長右衛門の出張旅費などを落合宿が四円五九銭支払いをしているように、明治五年には一応廃止となった。翌明治六年(一八七三)に官用人馬の継立として、次のような請願がでている。
 
   御請書
 非常御出兵 戍兵 交番 御通行の節 中津川駅へ組合村々人馬 無滞御継立可仕旨被仰付 承知奉畏 今般中津川において組合一同 集会仕規則相立向後御通行之節 聊人馬差支無之可仕候 依て連印を以て御請奉申上候  以上
    明治六年八月十四日                  中津川村戸長      森 孫右衛門
                               千旦林村戸長      林 源  蔵
                                      (以下四四村名・戸長名略)
                               郷方惣代 茄子川村   鈴木 要 助
                               宿方惣代 中津川駅   森 孫右衛門
    長谷部 岐阜県令殿
 
一人足四百十九人馬四十二疋恵那郡中津川村
一 〃百五十三人〃十五疋 〃 茄子川村
一 〃百弐拾六人〃十三疋 〃 明知村
一 〃五人〃二疋 〃 馬坂村
一 〃六人〃壱疋 〃 落倉村
一 〃十三人〃壱疋 〃 須渕村
一 〃三人〃壱疋 〃 安王村
一 〃十五人〃弐疋 〃 才坂村
一 〃九十八人〃十疋 〃 野原村
一 〃六人〃壱疋 〃 一色村
一 〃十人〃壱疋 〃 大船村
一 〃十六人〃弐疋 〃 小杉村
一 〃三十四人〃三疋 〃 小田子村
一 〃五十三人〃五疋 〃 吉良見村
一 〃三百三十六人〃三十四疋 〃 日比野村
一 〃二百六十四人〃二十六疋 〃 福岡村
一 〃十六人〃弐疋 〃 小泉村
一 〃十三人〃壱疋 〃 柏尾村
一人足百二十四人馬拾弐疋恵郡郡千旦林村
一 〃七十二人〃七疋 〃 飯沼村
一 〃六人〃壱疋 〃 馬木村
一 〃十五人〃二疋 〃 峯山村
一 〃三十六人〃四疋 〃 門野村
一 〃三人〃壱疋 〃 岩竹村
一 〃五人〃壱疋 〃 土助村
一 〃三十五人〃四疋 〃 浅谷村
一 〃二十五人〃三疋 〃 阿妻村
一 〃五十八人〃六疋 〃 原 村
一 〃二十四人〃弐疋 〃 高波村
一 〃七十七人〃四疋 〃 下 村
一 〃五十二人〃五疋 〃 水上村
一 〃七十一人〃七疋 〃 漆原村
一 〃四十五人〃五疋 〃 上地村
一 〃百二十六人〃十三疋 〃 高山村
一 〃十六人〃弐疋 〃 杉平村
一 〃十二人〃壱疋 〃 上田村
一人足九人馬壱疋恵那郡大栗村
一 〃百三十人〃十三疋加茂郡赤河村
一 〃二百十九人〃二十二疋 〃 神戸村
一 〃七十八人〃八疋 〃 福地村
一 〃百八十四人〃十八疋 〃 飯地村
合計 四十五ヶ村 人員三千七百十九人 馬三百七十八疋
一人足四十弐人馬四疋   加茂郡上田村
一 〃八十三人〃八疋加茂郡潮見村
一人足百八十壱人馬十三疋加茂郡切井村
一 〃三百三十壱人〃三十三疋 〃 越原村
一 〃百二十壱人〃十弐疋 〃 犬地村
一 〃八十六人〃九疋 〃 南戸村
 
一人足壱人     恵那郡下□村

 しかし中津川・落合両宿では、出金の利子払い、役人の取替分の支払い、雑費の後始末など、明治八年(一八七五)まで続き、完全に清算されたのは、明治一二年(一八七九)四月二九日(同掲書)に、苗木の山田屋に関係村の役人たちが集ったときである。この間の様子について川北八か村の助郷の場合は次のようである。
 (1) 川北八か村は中津川・落合両宿助郷であったが、これを次のように分けた。
 ○落合宿付
   (村名)  (村高)  (取米高)   (村名)  (村高)  (取米高)
 下野村 八六石下の五一
残地三五
 一一〇石元高一四四・五九一
内(引)三四・五九一
  上野村 二五二石 六二石五一
 坂下村 九七二石 四四七石九七八  瀬戸村 一〇八石 六三石九六
    合計 村高 一四一八石  取米高 六八四石四四八
 ○中津川宿付村
   (村名)  (村高)  (取米高)   (村名)  (村高)  (取米高)
 上地村 九五石 二五石二七五  苗木村 九九九石 一六二石三二五
 高山村 三一三石 九八石六一七  福岡村 七四五石 九二石八三二
    合計 村高二一五二石  取米高三七九石〇四九

 (2) 伝馬諸勘定(助郷出勤)を村の大きさ割(取米高又は村高)と、どの村も同額の平等割に分けて、前者の石割は伝馬出勤・役人の行動費などの場合で、後者の平等割は茶代、食事代などの諸雑費の場合としていた。
 (3) 伝馬出金は、中津川宿付四か村、落合宿付四か村別に取米高で割って石あたりをだして次のように割りつけている。
   ・中津川宿付四か村の例
  (金額) (内容)  (金額) (内容)
  一円七五銭九厘 雇衆、役人中協議  五円 (明治五) 申一二月払
 一〇円 中津川下役人手当  三円 (明治六) 酉一二月払
  三円 (明治三) 午  一円五〇銭 (明治七) 戌一二月払
  五円 (明治四) 未一二月払  二円三八銭五厘 (亥明治八) 一二月五日~一六日迄出金入費
合計 三一円六四銭四厘

   以上を取米高計三七九石四升九合にて割る。石に八銭三厘五毛で村別にみると
  上地村 二円一一銭五毛  苗木村 一三円五五銭四厘一毛
  高山村 八円二一銭四厘五毛  福岡村 七円七五銭一厘五毛

 (4) 伝馬金に関係する利子については、維新前からの続きもあって、八か村の取米高割にて石当りを出して割当る。
 (5) 伝馬雇頭に人足取集めなどの必要から渡した金額については、八か村のうちで関係ある村割りにするが、この場合は村高割とする。例えば、雇頭の直蔵に渡した分や、人足五五〇人余を集めるに要した二八円を、関係のない苗木村を除いた村高計二五七一石で割って、石に付一銭九厘を出して、次のように割当てている。
  上地村 一円三銭五五  高山村 三円四一銭一七  福岡村 八円一二銭五  下野村 九三銭七四
  上野村 二円七四銭六八  坂下村 一〇円五九銭四八  瀬戸村 一円一七銭七二

 (6) 明治維新後も当分助郷と出金をめぐる争いは続いた。明治三年(一八七〇)一二月九日~二二日まで、笠松県庁にて郡上郡、武儀郡への伝馬割賦金で談判が行われ、井口善介・鈴木利兵衛らが出張している。この争いは翌明治四年二月二六日から再開され、前記の井口・鈴木の外に市岡長右衛門も参加している。その後で同年四月三日より市岡長右衛門は落合宿惣代をかねて七五日分の給料を受取った記録がある(以上(1)~(6)とも前記の両宿伝馬諸勘定帳による)