中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

四 助郷制度のゆきづまり

(一) 和宮下向と助郷

以上は飯沼村の和宮下向書上帳を中心にして、助郷村の負担という角度から和宮下向の大通行をみてきたわけである。飯沼村は大井宿の助郷であるが中津川宿の一三か村助郷村としても同様の負担であった。駒場村庄屋源八らが文久元年(一八六一)九月に手明村(助郷でない村)を調べ当分助郷を願いでていた。宿役人も大通行の助成・人足確保の嘆願に幕府勘定方の出張先の京都まで赴いた。こうして文久元年一〇月九日に当分助郷申付けの触書が出された。中津川・落合両宿の当分助郷村は次の通りである。
 
 ○美濃国恵那郡付知村始め 外  四拾ヶ村
 ○尾張国丹羽郡瀬部村   外 八拾弐ヶ村
 ○越前国今立郡三谷村   外百六拾七ヶ村
 ○同国同郡 清水尻村   外 五拾八ヶ村
 助郷高 〆拾三万六千九百四拾八石余
              (中山道中津川宿・落合宿当分助郷村高書上帳・立教大学蔵)
 
 美濃国内だけでなく、尾張・越前に及んでいる。大井宿では三河・伊勢・越前にわたっていた。
 このように当分助郷を仰付られた村々は、その村を朝出立して中津川宿にその日には着けない所が大部分であった。越前国三谷村外一六七か村について「最初 御高割頂戴仕 人馬触当仕候得共 御差掛り相成御間合がたき旨等申立人馬差不出分」(文久二年当分助郷村高書上帳・立教大学)とあるように、実際の人足・馬の出勤は間に合わない。そこで宿問屋中としては、その分を雇いあげ持通しや荷物運搬を果した立帰人足の活用、助郷村での一時立替出勤でうめていった。そして通行後に出勤にあたる賃銭分を通知した。しかし、当分助郷にあてられた村は、この負担になかなか応じようとはしなかった。
 飯沼書上帳によれば、文久元年一二月二七日大井宿助郷惣代より飯沼への廻文に「宿役人が三河・伊勢の当分助郷になった差村へ罷越して 人馬雇賃銀について示談したところ彼是難渋申し その上公儀へ伺申して春まで延ばす様にといっている 人馬雇賃銀取集不行届で やっと伊勢の村から銀六〇〇匁だけで あとは春に延ばしてくれという 春になったら早々 これら差出さない村の役人を太田陣屋へ引きだして命令してもらい 帰り次第人馬賃銀を出させようと考えている」とある。また飯沼書上帳によれば、太田宿陣屋も困って この件で東美濃九か宿総代に江戸表へ嘆願するよう指示している。九宿総代者には、小栗八郎左衛門(細久手)、磯部又作(御嵩)、市岡長右衛門(中津川)、高木善右衛門(大井)の四人が仰付られ、文久二年正月中に出発となったとしている。この四人が実際江戸へ出発したかどうかはっきりしないが、嘆願は文久二年秋まで繰りかえし行われている。