中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

四 助郷制度のゆきづまり

(一) 和宮下向と助郷

和宮下向の本番前に助郷村が負担しなければならないのが、和宮迎えの幕府側の役人の上洛である。御徒頭仙石播磨守をはじめとする同勢一三八人(一組二三名の六組分)が三日間にわたって通行するのである。これに対する宿負担の見込み情報は、信州長久保宿から入ってきた。それによると人足は二五〇〇人必要とあり、助郷高一〇〇石について二五人当り位必要であろうといってきた。大井宿泊りの予定となり、東野村源七、永田村定助の二人が贄(にえ)川宿辺まで荷物を見届けにいっている。
 大井宿へは、この外に加納遠江守(若年寄)、道中目付小出中務、和田伝右衛門が一〇月四日大井宿泊り、一〇月五日に御留守居役、御広敷御用人、御番頭中、奥向役人中が大井宿泊りとなる予定、と板橋宿からも知らせてきたと助郷村へ連絡し、助郷の用意を促している。
 こうして本番前の迎えの段階である一〇月三~六日に、はやくも大きな助郷負担がきた。人足が多いので宿の問屋からは、人足を囲入り(宿の一定場所に集めておくこと)にしたいが、助郷村むらにて村役人衆中付添厳重に人足に申付けるなら囲入り同様だがどうするか。前々日から竹矢来を作って囲入れになれば人足も難儀をするので、村役人衆中もよく考えてくれと宿問屋中からいってきた。しかし、一〇月二日宿より飯沼村へ来た飛切急廻文によれば「当一〇月二日に囲入戸請 継立」となってしまった。
 こうした多くの人足が必要の最中に、太田陣屋より和宮下向のための木曽路宿の手当米一二〇〇俵送るから、助郷を出すようにと、宿に指示してきたが、これは宿役人で断っている。