中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

四 助郷制度のゆきづまり

(一) 和宮下向と助郷

和宮下向について本陣はじめ宿泊設置・往還・橋の見分のため、幕府勘定方役人が、文久元年(一八六一)七月二〇日江戸を出発し、八月五日頃この付近を通行すると問屋(大井宿)より廻文がきた。同じ内容の文書が岩村領役所から飯沼村へきた。
 
 今般 和宮様御下向に付 中山道筋御領所宿村往還道橋御見分目論見 其外為御用御勘定方吟味下役御普請方 相添被遣宿々助郷寄人馬数をも取調候に付 御領分宿村役人於場所呼出申□候義可有之 助郷并当時休役之村々共有丈の人馬兼テ取調置宿へ可□渡置候 以上
  右久世大和守殿 伺の上 平賀駿河守 酒井隠岐守申達
 
 として勘定奉行・吟味役・普請役・吟味下役 同見習など七名の氏名をあげた後、江戸表よりの申渡しだから、助郷は総代を宿まで出せと命じている。
 同時に「覚」として、幕府役七名が八月八日に大井宿泊りで、九日岩村領内を通過するので道・橋の掃除人足と改役一名を出すように指示している。この下見役人一行七名は八月八日中津川宿休み、大井宿泊。九日岩村領分通過で京方面へのぼっていったが、各助郷村の村高・人別調査書を提出させている。飯沼村の場合は次のようである。
 
            覚
  弥兵衛・利八・佐七……(中略)……鍬吉・弥右衛門
  〆九拾四人
 右の通り宗門帳にて一五才以上六〇才以下の男を調べ出している。
 一 (助郷高)高四五九石 飯沼村
  人数一一六人  内 九四人 飯沼  二二人 大野
   内 七〇人 一人立人足  内一七人 大野   五三人 飯沼
     四六人 弱者病身者共  内五人 大野   四三人 飯沼
  馬一八疋 内六疋 一疋立馬 内一疋 大野
        一二疋 弱 馬
  惣人数三二五人  内 一六三人男
             一六二人女