中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

三 広岡新田の又助郷

(二) 広岡新田へ大井宿代助郷のこと

安永六年(一七七七)五月二九日付の安藤弾正少弼より、大井宿代助郷の件で、早々罷出でよとの書状を、江戸の上州屋弥次兵衛が六月一三日岩村城下に届けた。関係村の原・釜屋[恵那郡山岡町]・明知・広岡の諸村の村役人は書状受取状を出すと共に、翌一四日に その旨の注進を関係代官におこなった。
 江戸よりの書状の要旨は (1) 大井宿の助郷である苗木領蛭川・姫栗・毛呂窪の三か村は、木曽川出水の時、助郷人馬が勤められない。(2) 広岡新田は一つの村であり、助郷勤めの手明村である。
 (1)(2)によれば、蛭川など三か村にかわって広岡新田は大井宿助郷にでよというものである。明知・原・釜屋についても同様であった。これに対し、広岡新田は翌安永七年に大井宿代官助郷免除の訴訟をおこした。その理由としている点を列挙すると
 ①広岡新田之儀は 阿木村の新田高の内にて 御年貢取立候て諸事阿木村の支配にて宗旨御改帳一円にて阿木村の内に相違無御座候
 ②阿木村之儀は 先年より落合・中津川宿へ助人馬相勤来候 人馬余敷触越候節は新田迠差出相勤来候 本郷より扶持米請取喰候て相勤来候
 ③広岡新田之儀は 山中に御座候故 猪鹿多く出 夜番等に難儀仕候
 ④御上納も相立かね 本田とは格別田畑地所悪敷 作物等も甚生立悪敷候故 至て下免にて口米諸役米も御免にて御座候
 ⑤甚〻困窮にて難立行(たちゆきがたく) 日日山稼にて渡世送罷有候(広岡・鷹見家文書)
 の五つである。要約すると、①阿木村内の新田であって独立一村ではない。②阿木村助郷を喰い米(扶持米)を請取って助けている。③山の中の村で猪鹿の夜番もしなければならない。④作物の収穫は悪く年貢がやっとの村である。⑤田畑だけでは生活が立たず山稼ぎをして生活していること等五点をあげている。