中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

三 広岡新田の又助郷

(一) 本村を助ける枝村

そこではっきりしないが、少なくとも安永期(一七七二~一七七八)には実施されていたものに「大通行の時のみ枝村は本村より喰い米(扶持米)を受取って、本村の助郷負担を助けて出勤する=又助郷」がある。
 そのねらいは苗木領村々の平均割によく似て、助郷の負担の均等化による助郷村の負担軽減化であることは明らかである。
 文政三年(一八二〇)三月尾張徳川家上国の通行があるが、この場合の広岡新田の又助の状況は、次のようである。阿木村より又助郷の要請があり、
  「人足五十七人外ニ支配人一人 都合五十九人尤支配ハ二人役」 広岡新田 居村百姓持高割
 とあるから、五七人の割当が本村の阿木村から来たことがわかる。この人足について
  人足一人に付足役米 阿木より米八升 外に居村足役米 米一升 都合人足一人ニ付 米九升
  但し居村(広岡新田)   一升は村割にて勘合
 人足の喰い米(扶持米)として九升を払う、そのうち八升が阿木本村からの支払い分である。
 人足は五七人であるが、支配人は二人役であるから、人員の計は五九人となる。九升のうち一升は広岡内の村割だから阿木本村から受取り分の計は八升に五九人を掛けた四石七斗二升となり、これに利米の九斗四升四合を加えた五石六斗六升四合が、本村から広岡新田の受取り分である。広岡新田はⅥ-129表のように高割りして、高一石当りの受取る喰い米分を算出し、それを個人持高に掛けて、人足に出勤している家、出勤していない家でそれぞれ差引き勘定をしている。Ⅵ-129表には周助の場合についてまとめてある。広岡新田には一一の五人組があるが、この組単位で差引計算をしたようである。周助は助十組に属し、その構成は助十・久蔵・与吉・政右衛門・周助・惣十の六戸であって、その中で又助に出勤したのは助十(二日分)・与吉・周助・惣十の四人である。

Ⅵ-129 文政3年 尾州通行広岡新田又助郷