中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第五節 助郷をめぐる諸問題

二 苗木領の助郷

(四) 飛州伝馬

飛州伝馬の原則の乱れは、中山道の大通行に伴い、落合・中津川両宿助郷の増加によって、三か村の困惑はさらに深まったに違いない。そこで三か村は、明治二年(一八六九)一〇月飛州伝馬の件に付き
 (1) 落合・中津川両宿付属の伝馬(助郷)と飛州伝馬の二重役であるから落合・中津川両宿の助郷をやめ、飛州伝馬だけにしてほしい。
 (2) 田瀬村・福岡村の間に下野村があるが、飛州伝馬の継立をやっていないので、継立の村にしてほしい(古田家文書立教大学蔵)
 以上の二点を苗木藩御伝馬懸り役所へ願書を出し、これを受けた形で、苗木遠山家でも文久三年(一八六三)六日より一一月迄の当分助郷、慶応二年(一八六六)三月より一〇月迄の当分増助郷(…不勤ニ相成相対之引合何分不行届…支配下村々難渋…)を例に助郷村々の困っている理由を挙げ、
 ① 三か村は二重役である。
 ② 今まで継立をしていない下野村にも継立をさせるように。
 ③ 木曽川を越して助郷に出なければならない。(危険である。夜船が出ない。余分な出費がかさむ等)
 三つの理由に、二重勤めの不当を訴え、もう一通の願書で、領内飛州街道の変更を駅逓司出役に願い出るつもりだったらしい。変更の理由として、
 ○田瀬-福岡-日比野-上地-(木曽川を渡る)中津川宿は継所七か所(中津川の次と落合宿-馬籠宿で七か所)。
 道のり七里余
 ○馬籠-山口-(木曽川を渡る)-坂下-田瀬 継所四か所。道のり四里半。
 継所が七か所から四か所になる。道のりが三里短くなり、山口の渡しは水流がおだやかだと利点を挙げ、田瀬村・坂下村で継ぎ、坂下村の落合・中津川両宿の助郷を解除するよう求めている。
 明治二年(一八六九)一〇月、新政府の駅逓司出役岡田駅逓少令史他三名が廻宿したとき、苗木藩伝馬懸り河方再蔵が前件に付き、鵜沼宿まで嘆願に出かけたが、岡田少令史は、
 「本宿だけの下調べゆへ 脇街道の儀は承ったとて 拙者共にて了簡の立て様もなく…」とか
 「二重勤めの儀などの難渋迷惑向は 何とか御とりはからいに相成るで御座ろう 其旨御配下へ御理解下さいませ」
 との返事ばかりで、願書を差し出しても、
 「それは取らぬと 申すにてはなけね共 拙者共見ましても 何とも申さぬ事ゆえ…預かりても詮なき事…書類が誠に多く拙者共迷惑いたすばかりで 箱の実にいたし置くより外なし 夫より来春 東京の御調べの節になられるが…」(立教大学蔵)
 と その嘆願は効を奏さなかったようである。この交渉のありさまを、河方再蔵は苗木藩当局へ報告しているが、岡田少令史の文書では、
 「…助郷御廃止御解きに相成り 宿方にて成たけ相勤め 人馬多分入用の節は 呼び村を立て候様 もっとも御取決めは 東京より御沙汰ニ相成るべく 先づそれ迠は是迠の通りに相勤め居り候様 御配下へ御理解下されませ」(立教大学蔵傍点筆者)
 といったように、飛州伝馬は翌明治三年(一八七〇)には、人足五六人、本馬四匹を出しており、後年制度が改まるまで続いた。