中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第四節 中津川・落合両宿の助郷

五 助郷負担と農民

中山道では伝馬役は一宿五〇人・五〇匹を常備するのを原則とした。しかし、実際には一日に二度勤めれば、半分の人馬で伝馬役の責任は果せるわけである。この宿人馬を使いきってもなお継立ができない場合に、宿問屋は助郷に対して人馬の寄付けの触れをだした。宿には囲い人馬(予備人馬)が入用であるから、宿人馬から囲い人馬を差引いて助郷に割当てられた。
 元禄七年(一六九四)助郷制度が確立した頃は、高百石につき二人二匹が助郷課役の規定であったという。これを中津川・落合両宿にあてはめてみると、助郷高八三〇一石だから、年間凡そ一六六人・匹となる。また「岐阜県史」によれば安永・天明(一七七二~八八)頃では、高百石に付三〇〇人~四〇〇人となったとしているから、これも中津川・落合両宿について試算してみると三〇〇人の場合は二四九〇三人、四〇〇人の場合で三三二〇四人となり、助郷負担が極めて増大している。
 西美濃垂井宿文書(県史史料編近世七)によれば、この宿でも元禄七年助郷制度ができた頃は平日は宿人馬ですみ、助郷がでるのは大通行の時のみで、年間で三〇〇~四〇〇人くらいであったが、
 享保~元文 人足六〇〇人~九〇〇人 馬一二〇〇匹~一三〇〇匹
 延享~宝暦 人足九〇〇〇人 馬四〇〇〇匹~五〇〇〇匹
 明和以降 人足一七〇〇〇人~一八〇〇〇人、人足二五〇〇〇人~二六〇〇〇人、馬五〇〇〇匹~六〇〇〇匹
 として、助郷負担が極めて増大していったことをあげている。
 在の村むらが助郷に出ることについては、
 (1) 道中奉行の下命、つまり「ご公儀」の仕事であり、領主もこれの遂行につとめなければならないものであり、逆にいえば、この役をもつ農家は、実際に主人がでるか、でないかは別にして、村としては有力な農家であり、名誉でもあったと考えられる。
 (2) 在の村むらから、助郷にて宿場、街道に出ることは、見聞を広くする機会であったのであろう。
 (3) 助郷には御定賃銭が支払われたから、現金収入の機会であったともいえる。
 以上(1)~(3)にあげたように助郷を負担した村にとって一つの機会であったが、前述のような負担の増大では、村は耐えきれず、深刻な問題となっていった。継立をめぐる問題であるので宿と助郷の紛争という形で、特に人馬割当数・駄賃銭などをめぐって利害関係がぶつかりあった。
 元禄七年以後、中津川・落合両宿助郷一三か村の人馬勤方全体の移り変りについて把握することはできないが、助郷のうちである福岡村について同村御用伝馬録(県史・史料編近世七)によると、元禄七年から文久元年(一八六一)にいたる同村の中津川・落合両宿への人馬勤めの大略がわかる。そのうち天明二年(一七八二)から文久元年の間についてほぼ一〇年おきに人馬勤めの数をあげたものが、Ⅵ-117表である。

Ⅵ-117 [中津川宿落合宿]人馬勤(福岡村)

 これによると、天明二年は人足一〇七四人、馬一二二匹半となっている。その後、年によって増減はあるが、文久元年では人足二四五三人、馬四四〇匹と増大している。さらに御用伝馬録によって、高百石に付いて一年間の勤人馬の割合を年代順にあげると次のようである。
 ○元禄七年(一六九四)~宝永二年(一七〇五)間、一二か年の平均、高百石につき人足一一・四人、馬一四・四匹
 ○天明二年(一七八二)高百石につき人足一四四人余、馬一六匹余
 ○文化四年(一八〇七)より同一三年(一八一六)の一〇年間平均、年間勤人馬について、高百石に付き人足一一四人、馬一五匹余
 ○文政元年(一八一八)~同八年(一八二五)の八か年平均、年間勤人馬について高百石に付き、人足一〇一人、馬一九匹余
 ○嘉永五年(一八五二)高百石に付き人足一〇二人、馬一九・五匹余
 ○文久元年(一八六一)高百石に付き人足三二九人余、馬五九匹
 となっている。元禄七年より一二か年と、幕末期で和宮下向のあった文久元年とを比べると、人足でおよそ三〇倍、馬四倍となっている。
 こうして、助郷負担最大期は文久元年~元治元年(一八六一~一八六四)になる。この間については一三か村全体の人馬勤数がわかるので(古田家文書立教大学蔵)中津川宿勤人馬数をまとめるとⅥ-118表のようになる。

Ⅵ-118 文久元~元治元年 助郷一三か村出勤人馬数 (中津川宿)

 この表で上地村をみると、文久元年で一四四人の人足が出勤しているが、上地村の高持百姓は二八軒(寛政期)とすると、一軒で年五・一回となる。同じように戸割にすると、馬は一軒一回となる。これに落合宿(上り方分)を加えなければならないから、一軒で七~八回となろう。また手金野村でみると、文久元年人足六七七人は、本百姓(大小共)で六四軒(岡本家日記)であるから、年に一〇・四回、出勤馬数一四四匹であるが、手金野村の持馬五四匹(岡本家日記)とすると平均二・六回となる。中津川宿出勤分のみであるが、上地村の場合より手金野村は負担は大きい。
 日比野村(本百姓一六〇軒)でみると、平均九・四回になり、阿木村は本百姓三三二軒(明細帳、市史中巻別編)であるから七・二回[本村のみの平均]となる。これらは落合宿出勤人馬負担とあわせて考えることにしないと、両宿としての負担の全体はわからない。そこで両宿への人馬詰を示したのがⅥ-119表であるが、想像以上の大負担である。さらに文久三年(一八六三)では、一層増加し、七七五七七人(人足)と驚くばかりの負担数である。

Ⅵ-119 中津川・落合両宿 助郷一三か村の人足勤め数