中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第四節 中津川・落合両宿の助郷

三 中津川・落合両宿助郷の特色

中津川・落合両宿が二条御番・大坂御番・公家などの通行の節は、合宿して下りでは中津川宿にて、落合人馬二五人・二五匹を合せ、それに助郷人馬を一緒にして、中津川宿から馬籠宿まで二里半を継立てる。上りの場合は、落合宿にて中津川人馬二五人二五匹を合せ、それに助郷人馬を一緒にして大井宿まで三里半余を継立てる方法をとっていたことは前述したとおりである。
 この場合、例えば上り通行は落合宿-大井宿の持越し継立であるが、中津川宿泊となった場合は助郷人馬の負担は大きくなる(慶応四年川北八か村嘆願書より・立教大学文書)。こんなこともあってだろうか、享和二年(一八〇二)一か年だけ苗木領八か村[両宿では川北八か村という]よりの頼みとして、「一ケ年は二〇〇人以下の当りは片宿勤めにて 上下とも助郷人馬継立申すべく候」(塚田手鑑・市史中巻別編)として、
 ○川北八か村は落合宿付、 ○阿木・茄子川・千旦林・駒場・手金野の五か村は中津川宿付
 のように一部を片宿勤めにしたこともあった。享和三年(一八〇三)には片宿勤めをやめると共に、同年三月一二日中津川宿の本陣において、「両宿と助郷一三ケ村」で相談の趣一一か条(古来入用書付留帳・市史中巻別編)を決めている。この中で、朱印、証文無賃の人馬は宿人馬にて払い、助郷に決して触れ当てをしないこと、宿人馬は成るべくは先払いのこと、出勤人足へ「定」以外の差人足は決してしないこと、川北八か村出水の時の人馬勤めのことなどを確認しあっている。
 なおこの合宿について、入用人馬一五〇〇人以上の時は、尾張徳川家郡奉行所にお願いして、大井宿と合宿して、落合宿から大湫宿まで宿人馬、助郷人馬共に、この長丁場を継立をしたことがあるが、天明七年(一七八七)日光門主下向の節に大井宿助郷の反対にあい崩れてしまったという(古来入用留帳・市史中巻別編)。