中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第四節 中津川・落合両宿の助郷

二 中津川・落合両宿助郷のはじまり

いつ頃から、中津川・落合宿両宿の助郷がはじまったであろうか。中津川宿に残るもっとも古い宿文書は元和二年(一六一六)の老中連署の伝馬賃定文書である。その中に「駄賃馬が多くいるときは、在々(ざいざい)の村を動員して、荷物を継立てるようにせよ」(第二節第四項参照)という意味のことが書かれていた。これは宿の継立の荷物が多い時、在(ざい)(近域の村)に、馬や人足を補充させよということであるが、それがどの村から、どの程度を補充せよということはいっていない。ここに助郷制度の原形が認められる。
 寛永一二年(一六三五)に諸大名の参勤交代制度が実施されるようになると、当然のことに、通行量は増加してき、宿内の整備が必要となった。このため、中津川・落合宿など、美濃国内尾張領関係の宿は堤銀の負担が(宿負担軽減のため)寛永一六年(一六三九)に免除になった。
 翌同一七年三月、幕府美濃代官岡田将監善政は領内各村を巡宿して、輸送力増加に対処できるように、助人馬寄付村を領内各村に命じている。幕末期に助郷減免嘆願で江戸出府をする福岡村庄屋馬五(孫)六郎がまとめた「中津川落合宿御用伝馬録」(県史・史料編近世七)は、その村名と村高についてⅥ-111表のように、一四か村あわせて、八七八二石九斗五升九合(Ⅵ-111表を合計すると八七八三石となるが、そのまゝ記す)となっており、外に一三三八石六升の中津川村分を入れて、都合一〇一二一石を中津川宿・落合宿の助郷人馬寄付の合高(あわせだか)としている。つまり、中津川、落合両宿の人馬寄村高に、中津川村高・落合村高が含まれている内容になっている。しかし、寄村名をあげた後の文面では「右村々中津川宿助人馬御役被仰付 得其意存候 何時ニ不寄 中津川問屋より差図次第 時刻不移人馬出し 御役相勤可申候」として落合・中津川両宿役人名で岡田将監宛に提出しているが、「中津川・落合両宿助人馬」と両宿名をあげていない。

Ⅵ-111 寛永十七年[中津川宿落合宿]助郷人馬寄付村の訳

 寛永一七年より二五年後の寛文五年(一六六五)の中津川宿書上(古来入用書付留帳・市史中巻別編)の中に、同じく岡田将監の仰付の記事があるが、それには「……大助(助郷)村の儀 中津川・落合両町へ道法(のり)四里半より内の村々高八三〇二(一)百五(九)斗七升四合 寛永十七辰年 岡田将監様より仰付られ候通りに 今助人馬御用の時寄せ申し候御事」となっており、御用伝馬録の合高八七八二石余[中津川村分を除いた分]と比べて約四八〇石減少している。同じ岡田将監の仰付の記事でありながら、御用伝馬録と寛文五年中津川宿書上では合高に約四八〇石の違いがあるが、これは落合村高を含めているか、いないかの違いのようである。このことは助人馬寄村として、はじめの頃は落合村・中津川村のような宿村自身を含めていたのではないかと思われる。
 寛文五年(一六六五)より一二年後の延宝三年(一六七五)の中津川宿書上(古来入用書付留帳・市史中巻別編)によると、手金野(手賀野)村・駒場村・千旦林村・茄子川村茄子川馬場三郎左衛門(茄子川村内旗本馬場氏)領分・丹羽勘助(岩村領主丹羽氏)領分・遠山信濃守(苗木領主遠山氏)領分の村高七口の計として、八三〇二(一)石五斗七升四合(寛文五年と同じ)をあげ、「ただし中津川落合両宿寄付」と、これら七口の村むらは両宿の寄付村であることを明らかにしてから、「これらは御公家衆様、御茶壺 大坂御番衆様御通りの節は この寄付の村は御公儀様より仰付られたように村むらより人馬を寄せ 御登り(京・大坂)の節は落合宿へ寄せ 御下(江戸)向の節は中津川へ寄せている」として、中津川・落合両宿助郷の出勤の仕方についてふれている。
 延宝三年(一六七五)より一四年後の元禄二年(一六八九)の中津川宿定助村名・高書上(古来入用書付留帳・市史中巻別編)では、「御茶壺・二条・大坂御番衆様・御公家様衆様・御門跡方御通りの節 相触れ人馬寄申し候て 落合宿と合宿つかまつり御登りの節は落合宿にて相勤め 御下りの節は中津川宿にて相勤め申し候 常々往還御通り衆には 御定通り 人馬所継につかまつり相勤申し候……」として、落合宿と合宿で勤める方法と、両宿助郷の勤め方を述べている。