中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第三節 落合宿

三 落合大橋の架橋と寛保の新道

寛保元年(一七四一)に開通した湯舟沢経由の新道も明和八年(一七七一)難所を迂回する十曲峠道に復し、寛保の新道は公道として三〇年間の役目を果たした。廃道の理由は古道との距離差、それに悪路とされているが、明和六年(一七六九)九月の新道開削願は岩村領主松平乗薀の通行を契機として提出されており、九月二二日には尾張徳川家より四ノ宮甚兵衛らが新道と旧道の見分に来た。このとき落合・馬籠両問屋が案内し見分に立会っている。明和八年(一七七一)二月、幕府勘定方役人が両道を見分し、この迂回路開通に付き「塚田手鑑」は
「明和八卯年三月 十石通往古之古道往還通ニ相成大橋出来申候」
と、記しているが、落合大橋の渡り初めは五月であった(寛保新道・迂回路共図表Ⅵ-110参照)。

Ⅵ-110 新道と付替古道略図 (馬籠蜂谷家文書略絵図から)

 この落合大橋も七年後の安永七年(一七七八)二月に架け替えがなされたが、向岸の橋台の杭を古材のままとしていたため、翌八年(一七七九)九月二五日の大雨により枠杭が崩れ、行桁の一本が折損し渡橋不能となり川越えとなった。新枠杭を使用したと役所に報告し経費を着服していた四ノ宮甚兵衛は処断され、安永九年(一七八〇)八月、再度の架け替えとなり、落合村の万右衛門が請負った。
 寛政元年(一七八九)六月一八日大雨による洪水にて落合大橋が流失した。五月二七日から降り出した雨が止まず、六月一五日より一八日まで大雨となり、中津川宿も大被害をこうむった。「塚田手鑑」は
「…大雨洪水ニ而『落合』橋流失致シ候 中津川御田地大分流失 前代未聞之事に候」
と、記録している。寛政三年(一七九一)三月に新橋が完成した。対岸の橋台を石垣にし行桁を二重にしたが、翌四年(一七九二)七月の大雨による出水で対岸の石垣と共に橋が落ちた。この後、尾張徳川家の役所は、新橋の普請を見合わせ三か年仮橋にて通行させたが、寛政七年(一七九五)一月、工事に取りかかり、五月に完成させ、対岸の石垣は割石にて築(つき)立て片刎橋となった(塚田家文書)。これ以後、落合大橋は文化五年(一八〇八)七月天保八年(一八三七)八月と流失した記録(市史・中巻別編編年表)が残されている。文政四・五年[一八二一 一八二二]には、一か年金五両の川渡し手当金をもらっているが、落合大橋がどの様な状態になっていたかは分からない。
 旧道に復した往還ではあるが、落合大橋の度重なる流失と架橋で、尾張徳川家の出費は大きかったに違いなく、維持管理に苦慮した結果が寛保の新道であり、文政年間に制度化した村方請負の仕用金四〇両の下付であった。