中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第三節 落合宿

三 落合大橋の架橋と寛保の新道

費用がかさむ落合大橋を廃して、道路を付替えることについては尾張徳川家も積極的であった。元文四年(一七三九)の作事方水野伴左衛門の湯舟沢道の見分から始まり、塚田手鑑が
「…湯舟沢道迠 往還御附替相成り道橋出来仕候テ寛保元酉年より新往還に申候」
と、言う様に、寛保元年(一七四一)に開通した新道は、次の様な経過で工事が着手されたのである。
 
元文五年(一七四〇)
・閏七月二二日 暴風雨により落合橋が流失する。九月一一日仮橋の架設が始まり、尾張領助郷四か村[茄子川・千旦林 駒場・手金野]と中津川宿村から御用人足一四〇人が割当てられ、九月一七日までの六日間、明六ツ[午前六時]より暮六つ[午後六時]まで作業をする。茄子川村木曽方では増人足六人を含め延五二人が出勤する。
・九月一三日
 尾張領助郷四か村の庄屋が仮橋工事の見舞に出かける。茄子川村では木曽方庄屋長八郎が行き、次の見舞品を贈る。
 ・作事奉行水野伴左衛門へ 酒一升、雉子(きじ)一羽
 ・手代二人へ 酒二升
 ・木曽方 久々利方代官へ 酒二升(篠原家文書)
・閏七月 尾張徳川家国方御用人らが、山村甚兵衛に前半の下調査の結果や現地の反応の報告を促す。
・八月
 中津川宿問屋長右衛門、落合宿問屋弥左衛門の二人は尾張徳川家郡奉行所にて、道路付替えについての考えを聞かれ、長右衛門は落合、中津川合宿の駄賃銭を願い、弥左衛門は落合宿村として要望を提出する。
 (1) 道のり七町余(約七六四m)延長分の人馬駄賃銭の増額。
 (2) 新道内の小橋五か所の破損修理は、大橋なみに尾張徳川家で負担してほしい。
 (3) 新道から外れる医王寺の助成。、
 (4) 山口村川並役所の御用は、落合川が満水のときは仮橋が渡れなくなるから、新道を使い馬籠内で継ぎかえをし、馬籠宿、山口村へ届けてほしい。
 (5) 田畑の仕事に行くとき使用したいから仮橋を払下げてほしい。
 落合宿は以上の要求をするが、落合宿へ金五両、医王寺へ金三両の助成がなされた他は、史料がなく要求通りになったか分かっていない。
・九月二日
 尾張徳川家士富田八郎兵衛は、幕府役人が見分に来訪した際の質問に「落合刎橋は出水のたびに、一つ刎まで水がつき往来にさしつかえること、十曲峠の『中の萱』は人馬通行の難所である。」
 だから願いを聞き入れ新道をつくってほしいと返答するように、中津川・落合・馬籠三か宿の問屋・庄屋らに指示をする。
・九月四日
 富田八郎兵衛、関係各村を廻り、見分役人に対する返答を徹底させる。
・九月五日
 作事奉行水野伴左衛門、手代三人、大工一人が付替道を見分する。道筋の草刈をし、見分役人の休憩所を設置する。茄子川村一七〇人の人足を出し、尾張徳川家より一人につき銀五匁の賃銀をもらう。他村の出人足数は不明(茄子川・篠原家文書)。
・九月一七日
 江戸から勘定方役人和田喜三郎ら馬籠に来る。翌一八日十曲峠より落合へ下り、それより新道予定地を見分する。
・一一月二日
 水野伴左衛門・吟味方高橋治部蔵の両名に宿間距離一里一六町二二間(約五七一二m)の道付け替え普請を命ずる(指示しない項目は木曽留書による)。
 
 橋材の不足、それに多大な費用を必要とすることを理由に、尾張徳川家は以上の様な経過で新道を建設していくが、この工事に要した費用や人足数など全体も、また細かな点も分かっていない。
 着工前の幕府勘定方役人の見分のとき、茄子川村では一七〇人の人足を出しているが、仮橋の人足割から推測すると、茄子川村他三か村と中津川で一〇〇〇人近い人数を出した勘定になる。寛保三年(一七四三)閏四月、湯舟沢村が尾張徳川家郡奉行所へ提出した「乍恐差上申口上覚」に、継立て人足として多すぎる「人足弐千七百七拾四人 戌年[寛保二年]馬籠宿江出役如此相勤申候」
と、人数を出役として出している。これは、馬籠宿が請負った区間を含めての付替道の出人足であり、新道工事は寛保元年(一七四一)以後も継続されたと考えられる(湯舟沢・島崎家文書)。
 新道は湯舟沢川沿いにつくられ、落合大橋から留橋まで約二kmあり、この間に釜橋、熊洞、小みだれ、境沢(さかいのさわ)に橋をかけた。このうち釜橋と留橋には欄干が付いていた(馬籠・蜂谷家文書)。この様な五つの橋と約五七〇〇mの道路をつくるには、元文五年(一七四〇)から寛保元年(一七四一)の一か年間では不可能に近く、全く新しい道路を開削したのではなく既設の道路を改修したと考えるのが正しいのではないだろうか。
 元禄一六年(一七〇三)湯舟沢山から神宮材が伐り出されるが、前年四月に湯舟沢村と馬籠宿間、それに落合宿間の駄賃銭が取り決められている。この用材は宝永六年(一七〇九)の遷宮に用いられ、また享保七年(一七二二)からは享保一四年(一七二九)の遷宮材が、新道完成以前に伐り出されている。これらの材木は湯舟沢川を川狩りにより流され、新道はこの川に沿ってつくられている(湯舟沢・島崎家文書)。
 前述した様に駄賃銭が取り決められたことは、それなりに物資の輸送がひんぱんに行われ、湯舟沢村より両宿間への道路はある程度整えられていたと思われる。湯舟沢村から落合宿へ行くには、川に沿い下る道筋と、中山道へ取り付き、往還道を落合宿へ下る道筋があり、中山道へ取り付けば馬籠宿は目前であった。この様な既設の道を利用し寛保の新道がつくられた可能性が強い。
 貞享三年(一六八六)の「湯舟沢村御年貢之覚」の中に「字、沓掛(くつかけ)」が記入されている。「沓掛」は留橋を渡った登り坂の登り口に位置しており、この地名は、峠の登り口で新しい草鞋(わらじ)に履きかえた時、古い草鞋を松の枝に掛けておく沓掛明神信仰にちなんだものである。このことは、寛保の新道が開通する以前に、街道が通っていたことを証拠づけている。
 寛保の新道に関係する地名として「新道」「新茶屋」が残っている。しかし、現在の地図上には他の小字を一括して「新道」としか記されていない。この小字の中に「小姓」があるが、小姓は山口村荒町と境を接しており、この中を湯舟沢から中山道へ通じたと推察されているが、確かではない。
 また、現在の留橋の上手(かみて)の右岸の岩盤には、「聻 寛保元年酉三月」と彫りこまれている。これは寛保の新道の架橋のとき刻まれたものと考えられるが、定かでない。

Ⅵ-109 留橋 岩の文字