中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第三節 落合宿

二 落合宿

慶長五年(一六〇〇)一〇月、山村甚兵衛良候は木曽代官[木曽山・飛驒川木曽川一貫支配]となり、美濃国内に一万六二〇〇石を与えられ、これを一族に分配した。落合村四八〇石四斗一升(美濃一国郷牒)は、山村甚兵衛と千村平右衛門が二四〇石二斗四升ずつ分知した。元和元年(一六一五)に山村甚兵衛が、同三年(一六一七)に千村平右衛門が尾張徳川家附庸となり、落合村は尾張領となったが、引続き両氏が知行し代官が執務した。したがって落合宿は、尾張徳川家と知行主[山村・千村両地頭]それに幕府[道中奉行]の三者に支配されたのであった。それに落合宿は中津川宿とちがい、中村・実戸(さんと)・北野・子野・上金新田の様な在方がなく、町と在方の区別のない小宿であった。
 宿駅の重要な業務は人馬の継立である。その宿駅を運営する役人を宿役人と言い、その年により人数に違いはあるが、落合宿には二名の問屋とそれを補佐する年寄、定使、人馬差がいた(濃州徇行記)。
 宿村大概帳では
 
 人馬継問屋弐ヶ所 弐ヶ所共宿中程 問屋壱人 年寄四人 馬差弐人 人足差弐人 右問屋弐ヶ所ニ而十五日代り相勤 壱役壱人ツツ相勤来
 
となっており、脇本陣は長屋、本陣は居宅にて半月交代で継立ての業務を行っていた。地頭[山村・千村両氏]は、問屋二人に米九石、年寄四人に米四石、それに定使の給米を支給した。馬差と人足差は奉公人の形をとっており、馬差一人給金三両が支払われている(濃州徇行記)。大概帳に出ている帳付は給米を支給されていたのか、給金をもらっていたかは分からない。
 宿内に居住し生活している者は、伝馬役や歩行役(第二節五項参照)をしなければならなかった。この負担は一般的には、宿場内の表通りに面した屋敷の間口によって決められ、歩行役は伝馬役の半分の間口と言われているが、落合宿の場合はその史料がなく、どんな基準で伝馬役と歩行役を決めたか分かっていない。この負担については、この章の第二節五項で詳しく取り上げているので参照されたい。
 享保一六年(一七三一)落合宿は中津川宿役人の立会の許で、宿方と村方を含めての負担と役割を次の様に取り決め、翌年より実施している。
① 伝馬役は一か年交代で勤め、休み馬と囲馬は金にて雇う。
② 御救金の分配は七ッ割にし、伝馬役は七分の六。歩行役は七分の一とする。
③ 以前は、村の入用金は役割であったが、高割とする
④ 川並役、宿番、昼番、山口村[長野県木曽郡]への背負荷、遠七里共に一人に付き米一升。中津川へは米五合とする。
⑤ 下落合 山之田八人の百姓は、村方の松明(たいまつ)を伐っているから往還七里から除く。
⑥ 大久手の者は郷蔵の番を勤める。
 この取決めの内容からは、伝馬役、歩行役の負担を全村でしたかは不明であり、もし 伝馬役、人足役が宿内の者だけに限られると、他の集落の者は御救金などの分配を受ける権利がなく、宿や村の雑用的なことばかりを負担したことになる。また伝馬役の隔年勤務は、このころ大名らの中山道通行願い(市史・別編・宿交通参照)が出されていたこととの関係は分からないが、中山道の通行が少なく、定まった数の駅馬を必要としなかったのだろうか。それに不足馬を取決めの様に雇馬としたとき、御証文、御朱印の通行で無賃のときの雇賃銭は、いずれかで負担しなければならず、財源次第によっては自分たちで負担した金を雇賃銭として受取る可能性が強い。
 この六項目の取決めから、落合宿と住民とのかかわりの全容を知ることは無理であるが、宿と宿でない集落の関係をある程度知ることができる。