中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第三節 落合宿

二 落合宿

慶長一二年(一六〇七)の「中津川小野年貢免許」(落合・塚田家文書)に市岡喜平次名が書かれているが[喜平次の次は治もあるが文書のままにする]、このほかに江戸時代初期の記録に市岡姓がみられるのは、
・天正一三年(一五八五)市岡半右衛門[八幡神社創建者]
・慶長一五年(一六一〇)市岡喜平治 [八幡神社棟札宿役人]
・寛永 二年(一六二五)市岡喜平次 [八幡神社御神体・銅版]の三例である。
 この半右衛門と喜平次の関係は、はっきりしないが、家康の知行状にある下条牛千世とのつながりを考えたくなるし、天正一三年(一五八五)以前に、すでに市岡氏が落合に定着していたと推定したにしても、とにかく中津川小野免許状「追而五年後ハ弐石ツツ年貢被出候 但子ノ年ゟ未ノ事ニ候印 中津川之内小野 五年之間年貢諸役免許候 山之儀も小野分 前々之ことく可為候 仍如件印 慶長十二年 未ノ三月十一日 山 甚兵衛良勝『花押』 市岡喜平次殿」の様に中津川までにも勢力を持っていたこの地方の有力者であったに違いない。また慶長七年(一六〇二)の「落合橋懸替申付状」に見られる「落合年寄両人」から慶長一五年(一六一〇)の八幡神社棟札の「宿役人市岡喜平治」への呼称の変化は宿駅制度が定着したことによるものと考えられる。
 市岡喜平次は、落合宿村の問屋と庄屋として「塚田敷光手鑑」「古来入用留帳」(市史・別編・宿交通参照)に元禄三年(一六九〇)から元禄一五年(一七〇二)まで五例(Ⅵ-102表)記録されているが、以後その名前が見られなくなっている。元禄元年(一六八八)には市岡喜平次が、屋下川原起シ新田畑を金四五両で売却している(落合郷土誌)。
 元禄二年(一六八九)に免許された猟師鉄砲喜平次分を弥左衛門が受け継いだり、天保八年(一八三七)弥左衛門が病気のため、養子栄助に問屋・庄屋役の跡役を願う一件では、先代弥左衛門が喜平次を名乗っており、これらのことから、慶長一二年(一六〇七)「年貢免許状」に書かれていた市岡喜平次の名跡は、弥左衛門家が受け継いだものと考えられ、市岡喜平次が活躍したのは元禄期の終りまでであった。
 享保三年(一七一八)には問屋として彦右衛門、吉兵衛の名があるが、享保一二年(一七二七)の「中山道大名通行願に出府嘆願諸事留書」からは、問屋五左衛門が書かれるようになり、両名とも庄屋を兼帯し五左衛門は久々利方、弥左衛門は木曽方の庄屋を務めた。また、五左衛門家の本陣に対して弥左衛門家は脇本陣でもあった。

Ⅵ-102 落合宿村の問屋・庄屋