中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

六 休泊

(五) 宿の継立をめぐって

奈川村を中心とする牛方連中よりおくれて、木曽谷の村である三留野のうちの十二兼、馬籠村のうち峠にも、牛にて諸荷物を付送る牛稼がはじまった。
馬籠村峠の牛方連中は、中津川宿の商荷物の付送りや、名古屋方面より木曽福島までの通し送り荷の運送に従事して、駄賃銭を稼いでいた。
 安政二年(一八五五)は、正月に地震、八月に阿木川、中津川の水害、一〇月に江戸大地震、一一月に又地震、と大変な年であったが、その翌安政三年八月に、馬籠峠の牛方連中と中津川宿問屋の間に争いが発生した。牛方連中には、同じ牛方の十二兼村、それに奥牛の立場で宮ノ越も応援した。峠の牛方連中が、中津川宿問屋に申し入れたことは、○送り状の不正がないこと。○大豆売買の場合の駄賃を払うこと。○付送り荷に過当な口銭をかけないこと。○名古屋-木曽福島の通し荷に対して過当な口銭をかけないこと。○牛方に対して依怙贔屓(えこひいき)をしないこと。○荷物を長く問屋に留め置かないこと。などであった。また、山村代官に対して、中津川宿で過当な口銭をとるので、牛方連中だけでなくそれだけ品物の値段が上がり木曽宿村諸色値段が高値になってこまります、と訴えた。これについて、中津川宿、落合宿をはじめ東美濃七か宿の答弁が、安政四年(一八五七)出されている。
 この答弁書は、「恐れながら御答かたがた願上奉る御事」(市岡家文書)というもので、これによると、まず、馬籠、十二兼の牛方連中とそれぞれ宿村の言い分は、前述したように、付送りの荷物は一駄に付口銭四文となっているのに、中津川宿などは、過当な口銭をとるので、牛方だけでなく、それだけ木曽谷宿村の諸色が高値になって難渋している、という歎願である。これに対して、中津川宿、落合宿をはじめ七か宿の答えと願いは大略次のようである。
 (1) 馬籠などの牛方荷物一駄に付いて口銭四文と集まってきめたことはない。
 (2) 商荷物はすべて相対賃銭にて継送りしており、これは、そのまま宿々の馬士・人足の助成になり、これによって、御朱印、御証文勤の御定賃での継立ができるのである、と宿は心得ていること。
 (3) 奥牛については、入魂の上、荷物一駄四文宛で勘弁をもって取りきめをしたことは事実である。
 (4) 近年、通し牛馬にて付送る商荷物は多分になって、それだけに宿場助成がだんだん相減じていくことは勘弁できない。
 (5) 口銭過分で木曽宿村諸色が高値になったといっているが、塩だけは必需品で別段であるけれども、其余の諸荷物は上り方は信州の伊那、松本、善光寺、下り方は江州その他上方筋より、すべて商人送荷であって荷主より相当の賃銭を請取っているので、口銭が高いことが理由で、牛方はじめ木曽の宿村が難渋になる筋はない。
 (6) 中津川宿・落合宿をはじめ宿々は、どこも助成になる商荷物相対賃銭の分、すべて木曽牛と伊那からの通し馬の中馬になってしまって、御定賃銭御用以外の余分稼はなくなってしまい、宿の難渋いよいよ増している。
 口銭過分といっても、一駄に一〇〇文も取るわけでない。宿々で定めは違うかもしれないが、商荷物は元来相対のはずであるから、口銭については宿にまかせてほしい。
 以上のようである。宿々の口銭の高についてくわしいことはわかっていない。