中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

六 休泊

(五) 宿の継立をめぐって

伝馬役負担者が受取るべき増人馬賃銭の上前をはねて宿入用にあてた金銭のことをいうのが普通のようであるが、各宿々の馬指など宿役人が、勝手な判断で出人馬の者へ渡すべき賃銭のうちからはねて、問屋場の筆・墨・紙代にあてた足金のことを刎銭ともいった。
 塚田手鑑(市史中巻別編)によると、安永三年(一七七四)一二月から、天明元年(一七八一)一二月までの七か年、人馬賃銭が二割増になったが、その配分をまとめている。それを表にすると、次のようになる。

 

 人馬賃銭二割増の金銭がはねられて、五分が直接宿助成になり、一割が領主に上納されて刎銭溜利金となって積立てられ、その一割が宿助成、伝馬役助成として貸付けられて、宿駅の収入となっている。
 この安永天明の増銭年々積立ての件について、中津川宿の場合を中川旧記(市史中巻別編)によってみると、刎銭溜り金(積立金)は三〇〇両、その一割利足(息)三〇両については、落合宿と同じように二割にあたる六両は本陣・脇本陣の雇料にあてられ、その割合は本陣一〇、脇本陣一の割合になっている。この六両は、支配陣屋に上納して追って下げ渡す方法になっているのも落合宿と同じである。他に宿助成として、金三分は支配陣屋へ上納のための路用、銀五匁は問屋場筆墨代、銀六匁は問屋場下役への気付、そして三両(溜り金三〇〇両の一分にあたり、利足三〇両の一割にあたる分)は元金返金にあてる、としており、残った二〇両と四匁については、これを四つ割りにして、そのうちの三つ分を伝馬役四五軒(問屋庄屋とも)割で渡し、一つ分を町在とも「歩行夫士百十三軒七分五厘制」として渡している。
 安永天明の増銭については落合・中津川両宿だけでなく他の宿でも同様であったろうと推察される。その後も、四つに割って、三つが伝馬役、一つが歩行役の方法は続いた。
 次に、刎銭のはね率というか、御定賃銭の増額とどのような関係になっているかについて、「塚田手鑑」「中川旧記」よりまとめてみると、Ⅵ-101表のようになる。

Ⅵ-101 落合・中津川間の定賃銭と刎銭

 一割半増賃銭は、本馬分でいって八文増となるが、その半分を刎銭としているから勤め人馬(馬士分)は五九文となる。この率は軽尻、人足も同じである。増賃銭は文政元年(一八一八)、さらに三割増となり、都合四割半増となっていく。本馬分でいえば八〇文になる。その場合の刎銭は二一文であるが、馬士分は、一割半増と同額であがっていない。六割半増について、これは凶作であった天保七年の六月~八月三か月の資料であるが、四割半より六割半と二割あがった分について、本馬分でいって宿方が八分にあたる四文、馬士取分が一割二分にあたる七文となっていて、この宿方分は高札書替代金分や太田宿陣屋へ勤めの入用費であり、東美濃九か宿申し合せたものだとしている。
 こうしてみてくると、
 (1) 本来は伝馬役負担者が全額受取るべき人馬賃銭をはねて、宿方刎銭として宿駅の収入としていたこと、そしてその割合は相当な額であったろうと推察される。
 (2) 人馬賃銭をはね宿助成にあてる方策は、中津川・落合でいえば、太田陣屋の指導のもとに行っていたことがわかる。
(2)にあげたように、刎銭は公認事項であったが、例にあげた天保七年より一年前、天保六年五月に「宿々心得条々」が出ている(瑞浪市史史料編)。その中に次のような内容の一項目がある。
 宿々出人馬へ渡すべき賃銭のうち 刎銭と唱えて 少々宿引取って 問屋場の筆 墨 紙代など まぎらわしい定金に馬差などがしていることがあると聞いている 割増賃銭の内 宿々助成分を請取っている上は 前々からやってきたこととして刎銭として賃銭より引取ることをしてはいけない このことは文政四年(一八二一)に申渡したことであるが まだ見られるから申渡す 割増賃銭のうち 宿助成分として請取っている分については 問屋場へ張出し書付よ
各宿において、馬差などがその判断で賃銭をはねて、宿費用にあてることの禁止を指示している。これは、前記の公認としての刎銭以外に、各宿々が宿役人の判断で、賃銭より刎銭を出すことが行われていたらしいことを意味する。また、宿助成分としてはねた分について、はっきり示すことによって、人馬負担者の不満が大きくならないよう配慮することをいっていると思う。