中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

六 休泊

(三) 本陣の収入(休泊料)

次に、表にあげられている休泊料についてであるが、これらは宿入・茶代、木銭米代・旅籠代・膳料、上物料・問屋継立料に分けられている。
宿入・茶代 宿入・茶代とは「心付け」で、現在でいうチップ(サービス料)であろう。このように臨時好意的なものだから、収入額は一定していない。例えば、例幣使の場合は、幕府役人、大名の場合の半額ほどである。
木銭米代・旅籠代・膳料 木銭米代は休泊者が料理人を連れて休泊し、自前で賄、その他をやってしまう場合で、本陣側からいえば、宿を貸す形となる。慶長一九年(一六一四)、「旅人駅家ニ投シテ 駅家ノ柴薪ヲ用レバ 其木賃鐚銭三文ヲ出シ 若其柴薪ヲ用サルモノハ 之ヲ出ス勿(なか)レ」(駅逓志稿)とあるように、江戸時代初期は木銭のみで、宿賃は認めていなかった。これが時代を経るにつれて、食事(賄二食付)、風呂、ふとんなどをふくめた現在の宿泊料金と同じような旅籠代に変っていった。例えば、寛文三年(一六六三)には「諸道各駅房銭ハ其薪柴ト共ニ 銭六文 馬八文……」(駅逓志稿)となって房銭がでてくるが、これは旅籠銭であろう。
 中山道では、同五年(一六六五)「……旦其房銭ヲ増シテ 主人銭十六文 馬銭十六文 僕隷銭六文ト為ス」(駅逓志稿)とあるように、旅籠銭も一定の定めがあった。天明七年(一七八七)には、「時価ニ従テ……」(駅逓志稿)というように相場になったこともあり、文政八年(一八二五)頃も同様であった。それが物価上昇になやむ幕末(元治元年)では、一定価格制に復したようである。
 次の膳料は昼御飯代であろう。ただし、夕食だけを本陣で食べて休泊を他の旅籠で、という場合もこれに入る。いずれにしても休泊せず食事だけをとった場合の料金をいったものであろう。
上物料・問屋継立料 上物料とは、本陣の市岡氏が休泊者に何かを献上すると、その労に対して下賜される金子のことであろう。また 問屋継立料は、本陣の市岡氏は宿問屋も兼務しているので、継立をよくやってくれたと下賜された礼金であろう。この継立料は、問屋が二軒あったから二分した。