中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

六 休泊

(二) 休泊

参勤交代の励行・貨幣経済の発達等は各領主の財政を苦しめたので、大名諸家は倹約のため旅籠銭・その他の手当の減少を試みた。大名の方でも、本陣での休息や宿泊があればそれだけ格式ばって費用もかさむので領財政を益々苦しくする。そこで他で休泊するようになった。したがって本陣では、収入が減り経営が苦しくなり困窮を加えるようになってきた。こうした現状を見た東海道の品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢の各宿を支配していた代官中村八太夫から道中奉行に対し、「本陣は諸大名の休泊のために建てられているものであるのに、宿々の端場にある茶屋などで昼休・小休などをするようになれば本陣設置の意味がなくなるし、本陣職を勤める者がないようになるから」という理由で、老中水野出羽守に対して「今後端場の茶屋で小休することを禁ずるよう……」伺いを立てた。そのとおり裁決されて、文政七年(一八二四)一二月 万石以上の諸家へ通達された。これに対し文政八年(一八二五)二月二四日 中津川本陣では次のような証文を差出している。
 
      差上申一札之事
 諸家様方御参勤御交代之節は 御本陣え御小休可有之之処 近年諸家様之内ニは宿内端場之茶屋等え御小休有之候趣 一体本陣之儀は御参勤御交代之節御小休ために被建置処 端場之茶屋等え御小休有之候而は本陣被建置候詮□も無之候間 以来端場之茶屋等え御小休有之間敷旨 水野出羽守様より被仰渡候間 其旨万石以上之諸家様方へ被仰達御座候ニ付 中山道は板橋宿ゟ守山宿迠 彦根美濃路日光例幣使道共板橋ゟ申通候 甲州道中内藤新宿ゟ申通候 諸印取両宿ゟ差上可申旨被仰渡承知奉畏候 御受證文差上申候
                                    (御休泊留記)
 
 このようにして幕末には本陣保護策もとられるようになった。