中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

六 休泊

(二) 休泊

休泊に関する史料としては、前述したように、中津川宿本陣であった市岡家に「古来入用書付留帳」・「御休泊留記」が残り、中津川本陣に休泊した大小の通行の情況に詳しいので、この史料を中心にみることにする。
 本陣であるので一般の者は原則として休泊できなかった。本陣に休泊できる者は原則として勅使・院使・宮・門跡・公家・大名・旗本その他であった。前掲の表でわかるように一宿一軒が普通であったから、交通量が多く本陣等が利用できない場合には、これに代わるものとして脇本陣があり、これまた一宿一軒が普通であった。脇本陣は施設としては当然本陣に次ぐものであった。
 大名等が止宿することになると、他客と差合うことを避けたり、宿割りなどの関係もあって、あらかじめ宿場の都合を調べて旅行日程・行程を立てるのが通例であった。
 まず旅行がきまると、家臣が休泊の旨を記した触を持って本陣を訪ねる。その触書を宝永四年(一七〇七)五月尾張但馬守へ輿入れされる姫君の宿泊の例でみると、
 
  一筆申入候今度 正親町大納言様之御姫君様 但馬守様江御婚礼付 右御姫様江戸江御参向被成候 五月五日其許御止宿之筈候間 其心得可有之候 尤御関札ハ無之候間御止宿指支不申候様ニ可被相心得候 恐々謹言
               三月廿五日          川合文五左衛門
        中津川御本陣                鈴木十兵衛
           長右衛門殿
  外之御宿割之義ハ重而差下申等候 以上
  追而申入候御泊之儀其元ヘ申入候ヘ共若外之泊有之差支候ハバ大井ニ御止宿可被成候間其元ゟ御本陣中江御宿被致候様ニ可被申通候 以上
  五月四日御泊御嵩 五日御休大湫 五日御泊中津川 六日御休妻籠 六日御泊野尻 七日御休上松 七日御泊福島右之御廻状御足軽御両人持参被致候
 
とあるよう廻状で申込まれ、若し支障があれば大井宿に止宿するとの内容である。
 本陣からは宿泊に差合いのない旨の請書を受取る。「…松代道中方荒居仲之助殿・鳥羽友治殿御触書御持参 御請差出候 茶漬差出候 本陣絵図宿絵図帰迠ニ差出候様被仰付候…」とあるように休泊の予約をし同時に本陣の間取図や宿内の絵図面を取寄せて帰国している。これは一例であるが、その接渉はまちまちで人馬の触や旅籠の触も出され同時に請書を受取ることもあった。また絵図面をとり寄せて直ちに本陣の座敷割や家臣の宿舎(下宿)にあてる旅籠屋等の宿割をする場合もあった。しかし参勤交代の大名等は交通路も一定しており、休泊する本陣も定まっている者が多く恰(あたか)も定宿の状態であったので、極めて簡単で多く二、三日か数日前に宿割の役人が本陣を訪れ、関札を持参すると同時に宿割りをしていくのが一般的であった。
 またその宿割りに来た折、建物の下検分もし破損箇所があれば修繕をさせ、その費用を与える領主もあった。
 修繕や普請がなされる場合は、さすが大通行か主だった人の時であった(本陣脇本陣参照)。
 止宿の二~三日或は数日前には、関札といわれる「何某が泊る」としるした木札(長四尺・巾一尺程)を一~三枚ほど持ってきて、一両日前には宿の両端の入口や、宿中の東西の然るべき場所、或は本陣の門前にかかげた。例えば、本願寺両御門主の折には「……御関札ハ御門前ニ建申候…(略)……尤新門主様西生寺御泊り被成 御関札ハ西生寺入口角ニ 立申候……」(天保四年(一八三三)四月)また京極長門守の折には、「……御関札下町端ニ建申候 御門前ニ御幕・御掛札……」(天保四年(一八三三)四月)等あり、関札はしかるべき所にまた門前に掛札という場合が多かったと考えられる。その他関札のたてられたところは、一枚の場合では、四ツ目川(黒田甲斐守)(天保四年)・四ツ目川金之助表(黒田甲斐守)(嘉永四年)大屋表(松平伊勢守)(安政五年)また二枚の場合は下表の様であった。

中津川宿内 関札設置場所

 この様に場所は一定したところはなかったようである。なお昼休の場合は関札はあったりなかったりするが、元禄一五年尾張御姫君下向昼休の折には「……御関札弐札頂戴町口ニ建土手の高サ三尺四寸竹やらい置候ニ結わらひ縄申候……」とある。小休の場合は懸札はほとんどない場合が多かった。さらに遺髪・遺体の休泊等については懸札はなかった。

Ⅵ-95 遠山美濃守関札

 また家臣の休泊する下宿にもそれぞれ木札か紙札を張ることもあった。
 休泊者が来陣となると、本陣は休泊者の格式・親疎等によってその対応は異なるようであるが、それぞれに送迎を行っている。多くの場合は、「上下(かみしも)ニ而(て)御送迎」と記されているので裃で送迎したことはわかるが、何処で送迎したかははっきりしない。町端までの送迎は次のように記されているので多くは門前であったかとも考えられる。
 宿端の送迎についてみると、「宿端迄上下に而(て)出迎…」(奥御祐筆組頭早川庄治郎)、「御出迎羽織袴ニ而(て)町端迄行申候…」(尾州御側用人田宮弥太郎)、「……茶屋坂江御出迎下町江御見送り…」(加賀宰相)、「……御本陣御見送り下町端迄御案内申候……」(老中水野出羽守忠成 小休の折)、「…御目見ノもの上下ニ而(て) 町端迄御出迎仕候……」(山村家より久々利輿入の折)等でわかるように、中津川の直接の領主山村家及び尾張徳川家に対して町端までの送迎を行っていることは確かである。その他については、「御休泊留記」で知る限りでは特別の場合のみと考えられる。
 大名等が休泊する場所には「御幕 御掛札有之候」・「玄関・門・御幕御懸札御持参被成候」とあるように、それぞれの場所に持参した幕を張ったようである。これもそれぞれの格式、家風によって異なっていたと思われるがはっきりしない。それぞれどのような場所にどんな幕が張られたかについて「御休泊留記」で調べてみると次表のようであった。

本陣休泊時張幕

 小休の場合でも門・玄関には幕を張った大名もいたが、幕・札なしの大名もいた。
 宿泊する場合には旅行者が食糧を持参して自分が調理をして炊き薪の代価すなわち木賃(きちん)(木銭)を払って宿泊する仕方と、食事つきの宿泊すなわち旅籠といわれる二通りの場合があった。大名も料理人を伴って休泊するので木銭で泊ることもあったが、幕末になると米は持ち運びに不便であったことから本陣で調達したので、木賃・米代を支払うという形で宿泊することが多くなった。また後者の旅籠については本旅籠(旅籠)と片(かた)旅籠(半旅籠)とがあった。片旅籠とは夜宿泊するが夕か朝かの一度だけ食事をすることまたその宿料をいった。この旅籠料については後述する。
 料理については実際にどんなものをとっていたか具体例でみると、宝永七年(一七一〇)巡見使が中津川三軒に分宿した折に出した料理は、
 
 (五月)廿七日 晩献立    (かうの物もりきセ)刺身(鯛わさび 鱒 赤貝 品川のり) にもの(くしあらひ たまこ 志いたけ)
          汁(鴨 竹のこ 漬松たけ) めし 引而 鮨 焼鳥
 廿八日 朝献立  膾(なます)(すすき さより きんかん きりたこ セうか) めし 汁(ふか皮こち さんせう)
          かうの物 引而□□□(竹のこ あわひ 志いたけ 梅干 大くわい 青さんせう)
          さかな(花いか わんもの たこ酢)
 
とあり、上客の料理は大変豪勢なものであったことがうかがわれる。
 文政八年(一八二五)殿様上国について二月太田代官とその手代衆が家来と共に道筋見分のため来陣、その折の食事メニューは、「御昼からしみそ六分入きのめてんかく下士の者同日御帰り 御泊喬麦切後一汁壱菜 御平生ふ波午蒡青菜汁からし味噌六分入供の衆弐人酒鳥出し申候…… 朝焼とうふあっかけせうかすりかけ汁のみ大こんあされ青菜唐からし 料理人藤右衛門」
 また普請奉行碓氷清八郎泊りの折には、「……御振舞之儀ハ上下共ニ汁五菜也 平生ふ志ひたけ波午蒡かんひょふあされ〆五品皿ぶり造身千代久青菜味噌あへ 朝平角焼とうふあんかけ皿玉子壱ツツ……」
 また尾張女中衆、「……御上七人壱汁五菜 但平のし玉子いも志いたけ皿のしたまこ千代久 ひたらかうの物 朝同断見合御次は一汁五菜常之通……」。
 食事についても旅籠料と同じように上と下の二通り位に分かれたようでありまた夕食は朝食と比べて豪華であったようである。ここでは主として上の部に属する人々の料理の内容をみると、長崎奉行牧志摩守・尾張遠山大膳の二名は宵は二汁五菜、朝は一汁三菜であったようである。中には非常に質素な場合もあり一汁一菜というのもある。一般的に多いのは一汁三菜、二汁三菜・二汁五菜である。