中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

五 人馬の継立

(三) 継立のようすと駄賃銭

元禄一六年(一七〇三)五月二六日に、若年寄・稲垣対馬守、道中奉行・安藤筑後守が大井宿に、勘定頭・荻原近江守、目付・石尾織部が中津川宿にとまって、中山道を下向した。荻原近江守の一行は、一六二人と馬二匹、石尾織部一行は六一人と馬一匹であったから、若年寄・道中奉行の一行を合計すれば、四~五〇〇名の大通行であった。継立てた宿と助郷の人馬数は四者で人足八〇〇人、馬が三七〇~三八〇匹という数にのぼった。この継立についてみると次のようであった。
<道中奉行の回状> 若年寄稲垣対馬守ら四者の通行を知らせる、道中奉行(久見因幡守・安藤筑後守)の回状が、二月一一日と二月一九日発で、江戸から宿継ぎで送られて来た。前者は二月一六日朝、後者は二月二三日昼に到着した。初めの回状は、次のようであった。
 
              覚
稲垣対馬守殿 上方筋に為御用 近日御発駕被成候 御帰府之節ハ木曽路被通候 右之於道中ニ御馳走ケ間舗儀不仕 普請等無用ニ可仕旨 対馬守ゟ被仰候間 可得其意候 宿々掃除ハいたし 人馬無滞様ニ可致候 安藤筑後守 荻原近江守 石尾織部も右同道罷越候 人馬員数之儀ハ家来ゟ書付可参候 日限之儀ハ追て申遣候 先為心得此如候 此廻状次々相廻し 留之宿ゟ以宿次を可相返者也
 (差出人 久 因幡、安 筑後、江戸ゟ京都大坂迠中山道幷美濃路 問屋・年寄宛となっている)    (市岡家文書)
 
 後の回状は、二月二三日に稲垣対馬守が他の三者同道の上、江戸出発の知らせで、内容は前者のと全く同じであった。
<先触> 稲垣対馬守ら四者は、京都・大坂で用事を済ましたあと、長崎まで行き、五月一七日に京都に引返し、同二二日に京都をたち、中山道を下向するという先触があった。しかし他の三者からの先触はなかったとのことである。その後、稲垣対馬守の家臣から来た先触と、休泊の日付の書付は次のようであった。「口上之覚」として家臣高津丈右衛門からの書状は、〝稲垣対馬守は来る五月二二日に京都を出発し、江戸へ下向する。従って自分、高津丈右衛門は、宿々で宿割をするために、明二一日に京都を出発する。泊休の書付を同封するので御覧の上、回送してほしい〟という趣旨であった。「泊休の書付」には〝(五月二二日)大津泊 守山休 越川泊 醒ヶ井休 赤坂泊 加納休 太田泊 御嵩休 大井宿泊 妻籠休 須原泊 福嶋休 贄川泊 洗馬休…(以下略)…〟と書かれていた。
<宿泊・人馬継立の準備> 先触が来ると、この様な幕府の上級役人の通行には、尾張徳川家の国奉行・郡奉行(のち太田代官)などが、道路・橋・宿駅・本陣等の検分に来て、修理を要する個所があると、普請などが行われた(休泊参照)。
 継立に必要な人足と馬は、中津川・落合両宿の宿立人馬では不足するので、助郷村へ村高の百石当りに、人足は六人、本馬は三匹半の割合で、割り当てが行われたという記録が残っている。
<人馬の継立> 中津川宿と大井宿に泊った翌二七日には、これら四者の一行を、中津川・落合両宿が合宿して、中津川宿から、馬籠宿まで継立てることになった。継ぎ立てた物と要した馬は、次のようであった。
乗かけ(馬)百二十疋 駄荷廿八駄 軽尻四十疋ほど 御乗物十五・六挺六人がかり かご三十四・五挺六人がかり 長持三十弐棹八人がかり 分持百八荷弐人がかり 其外馬付 (市岡家文書)
と記録されている。継立の種類等についての記録としては、中津川宿に泊った勘定頭と目付の二方分が残っている。それを表にしたのがⅥ-83表である。勘定頭・荻原近江守の御朱印人馬が人足八人・馬八匹、駄賃による人足二五人・馬一七匹・軽尻馬七匹、目付・石尾織部の御朱印人馬が人足八人・馬が七匹、駄賃人足が六人・馬が八匹となっている。両者の御朱印と駄賃の人足及び馬を合わせると、四七人・四七匹である。しかし実際の継立に要した人足と馬は、宿人足・寄人足あわせて四九七人、馬は二六八匹であった。継立人足から朱印・駄賃人馬を引いた人足四五〇人、馬二二一匹は添人馬または御馳走人馬というものであろうが、無賃であってまったく宿村と助郷村の負担になるものであった。実際の継立人馬数は、朱印・駄賃人馬の合計の数の人足が一〇・六倍、馬が五・七倍に達している。「右の道中において 御馳走かましき儀仕らず」との回状があった上でのことである。

Ⅵ-83 御朱印・駄賃人馬数と継立人馬数(元禄一六年若年寄・勘定奉行下向の場合)

 駄賃人馬に支払われた駄賃銭は、Ⅵ-84表のようで、二者で人足賃は一貫五七八文であった。これを継立人足数で分けると、人足一人あたり三文五厘であり、馬の駄賃銭は二貫八三二文であったから、継立馬数で割ると、馬一匹あたり一〇文であったと記録されている。その当時、中津川宿から馬籠宿までの御定賃銭は、人足が四六文、本馬が九二文、軽尻が六〇文であったと記録されてあるから、実際の駄賃銭の御定賃銭に対する割合を見ると、人足で約一三分の一、本馬で約九分の一、軽尻でも六分の一の賃銭であった。この面からも、如何に重い負担を強いるものであったかを推測することができる。

Ⅵ-84 駄賃人馬と継立人馬一人(一匹)あたりの賃銭
(元禄一六年若年寄・勘定奉行下向の場合)

 大井宿に泊った若年寄と道中奉行の継立に要した人馬は、中津川村の町と在郷の人馬刈りをして使用したが、まったく不足であった。前夜に大井宿へ人足七~八〇人を派遣していたので、大井宿の人馬を馬籠まで「無異儀」通して、ようやく間に合ったとのことである。人馬賃銭の支払は、二人分の人馬賃銭合六貫九八四文であり、その内三貫四一八文を大井の宿人馬・寄人馬の駄ちんとして渡し、残る分を、中津川村の町と在郷、及び落合宿人馬に分割して渡されている。
 さらに、大湫宿なども宿駕籠が不足であったのか、中津川宿の宿駕籠一〇挺を、西筋へ貸して、西筋から来た宿駕籠を全部、中津川宿の駕籠と共に馬籠宿へ通して継ぎ立て、間に合わせることができたという。