中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

五 人馬の継立

(一) 伝馬役

旅籠や商業を営んでいる伝馬役人、時には年寄役なども勤める伝馬役人が、自ら馬を率いて、荷客の運送の夫役に出たのであろうか。江戸中期以前のことはよくわからないが、嘉永三年(一八五〇)の「伝馬金請取渡控帳」(田口家文書)によって調べると、Ⅵ-75表のようになる。伝馬役人三五人から伝馬金を徴収していることが注目される。

Ⅵ-75 中津川宿伝馬役人と請役者(嘉永三年)


<伝馬請役者と馬数・伝馬金受領額>

 徴収方法は、伝馬丸役の一役(株)あたり、金一両一分三朱の伝馬金を徴収することが基本で、伝馬半役からは半額の金二分二朱と銭六〇〇文を徴収している。従って役株数に応じて伝馬金が徴収されている。また最後の市役支配人の磯兵衛の金一〇両は市運上金である。伝馬金を納入しているのは 丸役が三三役、半役が一七役(丸役に換算すると八・五役)であるので、合計すると四一・五役となる。嘉永三年の伝馬役は四一・五匹で勤めたということになる。伝馬役四一・五役でもって金六〇両一分二朱の伝馬金を納入し、市運上金の一〇両と合わせて、この年の伝馬金総額は七〇両一分二朱であった。
 この伝馬金のうち七〇両が 伝馬請役者に支払われている。伝馬請役者の治郎吉は伝馬四匹を請負って伝馬役をつとめ、伝馬金八両を受取っている。以下又助・儀助……とみていくと、嘉永三年(一八五〇)においては、一三名の伝馬役請役者が市役馬一匹を加えて三五匹の馬で伝馬役を一年間勤めて、伝馬金七〇両を受取っていることがわかる。
 このように見てくると、伝馬役人は、自ら直接に馬を率いて荷客を運搬するのではなくて、伝馬金を納めるという形で伝馬役を負担していたと考えられる。
 伝馬請役者の治郎吉らはどういう人たちであろうか、自ら手綱を引く馬士であろうか、それとも他の馬士を雇っていた伝馬請負人であったか、もう少し考察したい。
 
   <伝馬役人の伝馬金納入の一例>
                三右衛門
 一 金壱両壱分三朱         岩井助七
  半             小兵衛分
 一 同二分二朱ト六百文       右同人
  丸             佐五左衛門分
 一 同壱両壱分三朱         右同人
 〆金三両弐分ト六百文
     内金弐両       只七え先借
      同壱分弐朱     宗吉 同断
      同壱分       安吉 同断
      同弐朱       熊吉 同断
      同弐朱ト四百文   源十・又助同断
     〆金弐両三分弐朱ト四百文 十八日 善吉ゟ受取
    引〆金弐分弐朱ト弐百文
 
   <伝馬請役者の伝馬金受取の一例>
  請役者連中           儀助
  一 金五両     馬二疋半
    内金一両弐分     磯兵衛ゟ先借
    十八日
     又壱両 正金    磯兵衛ゟ相渡
     又壱分ト百五十八文  当度貸
    札九斗五升弐合代
      壱両三分ト六百三十文
    〆四両弐分ト七百八拾八文
   引〆壱分弐朱
   内 金札 壱分
     正金 弐朱 合〆壱分弐朱渡ス 済
 
 伝馬役人の岩井助七は伝馬丸役二株と半役一株を持って伝馬役を負担していた。納入すべき伝馬金は三両二分と六〇〇分である。それを伝馬請役者の宗吉・安吉・熊吉・又助と他の只七・源十に前貸という形で支払っている。残金の二分二朱と三〇〇文は善吉が岩井助七の代りに納入し完済となっている。一方伝馬請役者の儀助は馬二匹半で伝馬役を請負って、金五両を受取ることになっている。これを磯兵衛から三度にわたって前借りをしている。「札九斗五升二合代壱両三分六百三十分」は、受取る筈の伝馬金五両から差引かれているから、(年貢)札九斗五升二合の代金を、伝馬金の中から納めたものであろうと考えられる。その後残額一分二朱を金札と正金で受取っている。このことから儀助は九斗五升余の年貢を納める農民で、馬二匹半で伝馬を請負う馬方であったと考えられる。