中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

五 人馬の継立

(一) 伝馬役

中津川宿の伝馬役や歩行役の負担方法はどのようであったのか、中津川宿のどういう人たちが、どの役を負担したのであろうか。中津川宿の伝馬役負担者の名前を見ることができるのは、嘉永四年(一八五一)の記録であるから、これによると次の通りである。
嘉永四年 出馬役人名簿
(伝馬丸役)
一 孫兵衛分   和吉一 彦左衛門分   安吉一 伝六分岩井鎌七
一 市郎右衛門分同人(岩井鎌七)一 又六分市岡長右衛門一 長兵衛分   磯兵衛
一 小左衛門分同人(磯兵衛)一 兵右衛門分菅井嘉兵衛一 三右衛門分岩井助七
一 佐五右衛門分同人(岩井助七)一 孫七分岩井五平次一 五左衛門分羽間半兵衛
一 伝左衛門分羽間半兵衛一 庄助分   八蔵一 源助分同人(八蔵)
一 彦右衛門分同人(八蔵)一 善右衛門分酒井伊左衛門一 伝十分同人(酒井伊左衛門)
一 庄三郎分大泉寺一 弥五左衛門分    弥兵衛一 三四郎分   徳十
一 利左衛門分   吉兵衛一 弥平分    次郎左衛門一 平六分同人(次郎左衛門)
一 善吉分羽間杢右衛門一 太兵衛分同人(羽間杢右衛門)一 喜七分   又八郎
一 五左衛門分   与三兵衛一 兵左衛門分勝野七兵衛一 弥平次分   善左衛門
一 次郎七分    五兵衛一 源五右衛門分   市左衛門一 長助分   直助
一 問屋分市岡長右衛門一 同断(問屋分)森孫右衛門一 善三郎分肥田与六
〆 三捨六役
(伝馬半役)
一 孫兵衛分   藤九郎一 孫助分羽間杢右衛門一 藤右衛門分同人(羽間杢右衛門)
一 又助分同人(羽間杢右衛門)一 金蔵分   政助一 新四分   栄助
一 清兵衛分馬嶋靖庵一 堀尾分   磯兵衛一 善七分   源吾
一 小兵衛分岩井助七一 弥五左衛門分   柳右衛門一 孫兵衛分   長平
一 次左衛門分   八兵衛一 九郎左衛門分   半蔵一 作右衛門分   儀八
一 庄助分  次郎左衛門一 又八分後藤東逸一 堀尾分   銀右衛門
 〆 捨八役
(森家文書「嘉永四年戌年分二割増御利足被下置候分割付帳・中津川村」)

 この文書の中で、伝馬丸役というのは、一人で伝馬一匹分の負担をする役であり、伝馬半役は伝馬一匹分の半分の負担をするものであり、二人でもって伝馬一匹分の負担をすることになる。
 嘉永四年(一八五一)の中津川宿では、ここに名前の出てくる和吉、安吉、岩井鎌七……という人たちが、伝馬役の負担者だったのである。自ら伝馬を率いて出役するか、代わりの人が出役するかは、ともかく、この人たちが伝馬の義務を負っていたのである。「孫兵衛分 和吉」とあるように、~分とあるのは、恐らく伝馬役の負担が課せられた当初の負担者の名前であろう。換言すれば、当初孫兵衛が負担していた伝馬役を、嘉永四年(一八五一)には和吉が負担していた。即ち、孫兵衛分の伝馬役が和吉のところに移動していたものと考えられる。
 伝馬役全体を見ると、伝馬丸役は二七名で三六役を負担し、伝馬半役は一六名で一八役を負担している。しかし半役は丸役の半分の負担であるから、丸役に換算すると(丸立(まるだて)という)半役分の一八役は九役ということになる。従って、嘉永四年の中津川宿では、伝馬丸役三十六役に伝馬半役分の丸立九役を加えて、伝馬役は四五役であった。伝馬四五匹であったということになる。このうち問屋分の二役と庄屋分の一役は、実際には出役(出金)しなかった-日々継立の業務に携わっていたからであろう-ので、三役を差引いて四二役で伝馬役を勤めていたようである。伝馬についての諸記録の中には、伝馬役四二役、伝馬役四二軒、伝馬四二匹、時には伝馬役四五役、伝馬役四五軒という表現があり一定していない。