中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

四 中津川宿のようす

(二) 宿村

江戸時代の中津川村の郷蔵が、現在も、もとの位置に建っている。本町の問屋・本陣の市岡長右衛門家裏(北)に建てられていた。現在は本町一丁目である。旧町名では倉前町に属し、問屋・本陣役をつとめた市岡家の所有の蔵として現在も使用されている。屋根は瓦からトタンに葺きなおされ、腰板にもトタンが張りめぐらされているが、あとは江戸時代のままの姿を留めている。蔵の内側の板壁に、次のような文が書き留められている。
 
  寛文三(一六六三)癸卯年 御蔵出来
  宝永三(一七〇六)丙戌年 今度中柱江太中貫三枚入 惣廻裏板新規ニ取リ立ル
                                          奉行   瀧本伝左衛門
                                               小倉伝六
  右之書付 板敷裏ニ 記シ有之 延享二修覆之節 見出写置
 延享二乙丑年 [九月十七日ゟ十月五日迠] 修覆
  今度惣柱根接 惣土台新規ニ入 尾引根太タ板敷古木差加江繕取替 間タ仕切新規ニ取リ立遣申ニ 用ル番匠弐百有余 木挽五拾工有余懸ル
                                          奉行  亀子藤兵衛(カ)
  但シ外戸江用ヒ候鎌鍵共ニ御役所ゟ庄屋江相渡置遣申候 蔵取扱之儀庄屋専可取扱候 差合候節ハ年寄迠ニ限リ取扱候筈ニ向井五右衛門申渡ス(郷蔵壁書)
 
 この文の前半から、郷蔵が寛文三年(一六六三)に創建されたこと、宝永三年(一七〇六)には中柱に太中貫が入れられ、蔵の内側全面に板が張られたこと、これらのことが板敷の裏に記されていて、延享二年(一七四五)の修理の際に発見され、壁板に書き写されたこと等がわかる。後半の文からは延享二年の修理の時には惣柱の根つぎが行われ、土台が新しいものに取替えられたこと、内部の仕切が新しく取りつけられたこと、大工が二〇〇工、木挽が五〇工かかったことがわかる。その当時、向井五右衛門が中津川代官であったことから、奉行の亀子藤兵衛は郷蔵修理の奉行であって代官の下役か、木曽福島の山村家の家臣と考えられる。従って地頭山村家の命令、管理のもとに郷蔵の建築・修理が行われたと考えられる。また但書から、郷蔵の鍵は中津川代官所から、中津川村の庄屋に渡され、郷蔵の管理は庄屋が行うこと、庄屋が都合の悪い時は年寄役が管理することを代官・向井五右衛門が申渡している。この時に、郷蔵の管理権が代官所から村役人の庄屋に移されたのであろうか。
 延享三年(一七四六)当時、年貢米は全部郷蔵へ入れることになったと書かれている。このことから郷蔵は、年貢米を入れる蔵であったことがわかる。また「宿内郷蔵 壱ヶ所 囲籾等有之」(中山道宿村大概帳) とあるから 備荒のための囲米を貯蔵する所でもあったのである。
 さらに壁書きによって次のことがわかる。
 (1) 文化五年(一八〇八)に郷蔵が再建されたこと、その後の再建については記録がないから、現在の郷蔵はこの時に再建されたものと考えられる。
 (2) 木材、鉄具類、瓦などの資材、大工、木挽、左官などに支払う労賃及び扶持米は地頭の山村家が負担した。
 (3) 人足、竹、藁、縄、赤土、砂等は、中津川村の人々の労役でまかなわれた。
 (4) 前項のうち赤土と砂は中津川宿の伝馬役人(伝馬役株の所有者)の負担であった。
 (5) 瓦、赤土、竹、藁、縄等を使用していることから、文化五年の再建時の郷蔵は、瓦葺の屋根、赤土の壁であった。
 (6) 再建時の中津川代官及びその下役の氏名、中津川村の庄屋名、大工、木挽、杣、左官の名前など等々。
 郷蔵の敷地は一畝一歩で、年貢の免除地であった(中川旧記)。また市岡家文書の「弘化三年萬記」によると、「米三石御蔵番料也」と記されているから、鍵を預かって郷蔵の管理をした庄屋に米三石が手当として地頭の山村家から支給されていたものと考えられる。

Ⅵ-70 中津川村の郷蔵の壁書