中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

四 中津川宿のようす

(二) 宿村

<田畑面積の推移>中津川村の田畑面積の推移を見ると、Ⅵ-66表のようである。貞享元年(一六八四)の山村甚兵衛の内検から、寛政年間、享和元年へと進むと、田の面積でおよそ五町歩ほど減少し、畑の面積でも三町歩弱の減少となっている。田畑合計では八町歩弱の減少である。これは水害などによる川欠引、川成引、永川引などによるものであろうか。弘化三年(一八四六)の田畑面積は、享和元年と全く同じになっている。明治三年(一八七〇)になると、貞享元年とくらべても、田で一五町歩、畑で二〇町歩ほど増加しており、田と畑の面積比は、江戸期に比べて畑の占める割合が高くなっている。

Ⅵ-66 中津川村の田畑面積の推移

 <石高> 幕末の弘化三年(一八四六)の町・在郷の田畑別の石高及び川欠引、川成引、永川引と庄屋・問屋・年寄役の年貢免除の分を差引いたそれぞれの残高は、Ⅵ-67表の通りであった。残高合計は一一九二石三三三二となっているが、打出残高の合計一三九石八七五一を加えると一三三二石二〇八三で、村の表高一三三四石六三に近い。また残高合計に占める町、在郷の割合も、太閤検地や宝暦六年とほとんどかわりがない(Ⅵ-64表参照)。

Ⅵ-67 弘化三年 中津川村の町・在郷別、田畑別の石高

 残高合計で田畑の比を見ると、田の占める割合が九七%であるから、Ⅵ-66表の弘化三年の田畑面積と比べると、田高の占める割合が非常に高く、畑高の占める割合は逆に低くなっている。これは畑の生産性が非常に低く見積られていたためであろうか。また町、在郷別に田畑比を見ても、いずれも田の高が占める割合が非常に高く、地域的な特徴がない。実際には畑が非常に少なく、水田化率が高い村であったと考えられる。それは灌漑用水の進歩のためであろう。
 <年貢米> 弘化二年に実際に納めた年貢米はⅥ-68表の如くである。打出分の田畑を含めて、八一〇石二九九三であるが、それに年々見取年貢や山年貢を加えると約八三〇石となる。それは中津川村全体の残高一三三二石余に対して六二%である。従って残高に対する年貢負担率は六二%ということになる。六公四民よりやゝ重いということである。Ⅵ-68表に町・在郷別に田畑の年貢米、田の免、畑反当り年貢米、田の残高に対する年貢米の割合(年貢負担率)等を示した。町分を例にとると、田の年貢米が二九一石余で、町分の田高(Ⅵ-67表参照)六四〇石余に対する割合は〇・四五四八で、これが町分の田の免である。町分の田の残高五一三石余に対する割合は約〇・五六七六で、これが残高に対する年貢米の割合、即ち年貢負担率である。畑の年貢米は五石三一三で、反当りの年貢米は六斗七升五合九勺である。医師の屋敷は上田であるが中田なみの石盛がしてあって、年貢米が一斗四八である。田畑、医師屋敷の年貢米をあわせると二九六石七八七となるが、その一割の込口米二九石六七八七が加算されるので、実際に納める年貢米は三二六石四六五七である。これは町分の残高に対する貢租率は〇・六二六二であるから、約〇、六三(六三%)である。以下中村から川上村、その打出分までの年貢米を合計したものが前述の八一〇石二九九二である。

Ⅵ-68 弘化二年 中津川村の町・在郷別の年貢米

 約六三%では重い年貢であるのに、弘化二年には田耕作御貸米八七石三とその利足米四三石六五、合せて一三〇石九五、その上百姓作喰米拝借中この年返却分を二三石二返却しなければならなかった。更にそれに加えて「巳年(天保四年か)凶作 御救米を四一石七一一七五拝借し、天保五年(一八三四)より嘉永元年(一八四八)まで、一五年賦返上で、弘化二年分は二石七八〇七九を返上しなければならなかった。年貢米にこれらの返上米を合わせた弘化二年の惣取米は九八九石八五六七九であり、これだけを納めなければならなかった。この惣取米は、中津川村高の残高合計の実に七四・三%という高率であった。残高合計がこの村の一年間の米の収穫高に近いと考えると、収穫高の七四%を地頭に納めなければならないので、百姓の手元に残るのはわずかに二六%弱という状況であった。
 弘化二年(一八四五)は打続いた天保の凶作の後であったから、特別に年貢の重い年であったかというと、必ずしもそうではない。安政六年(一八五九)の惣取米は九八七石二三〇七であったから、弘化二年とほぼ同じであった(中川旧記)。中津川村は定免で、年々の年貢はほゞきまっていたのであるから、拝借米の返上分がないとしても、八三一石前後の年貢となっておよそ六二%の負担率であった。
 <家・人数> 中津川村全体の家数と人数の推移は、Ⅵ-69表のとおりある。寛文五年(一六六五)の家数は二五三軒であったが、宝暦六年(一七五六)には三二九軒と増加し、その後寛政年間、天保期までは変化が少ない。ところが安政三年(一八五六)には四三五軒、明治三年(一八七〇)は五一九軒となっている。寛政期に三二六軒だったのが、安政三年に四三五軒で、五~六〇年で一〇〇軒ほど約三割の増加である。安政二年から明治二年までわずか一四年間に、八四軒増加し幕末に家数が急激に増加している。
 しかし人口の方は、元禄以前は不明であるが、元禄一六年(一七〇三)から明治三年まで、二二〇〇人から二三〇〇人前後で、天保一四年(一八四三)を除いて、大きな増減が認められない。天保一四年だけが一九一六人と減少しているのは、天保の打続く凶作と飢饉の影響であろうか。当時中津川村に餓死者があったかどうか詳らかでないが、窮民を救恤したという褒状など(高木家文書 市岡家文書)が見られるから、かなりの影響を受けたものと考えられる。

Ⅵ-69 中津川村の総家数・総人数の推移

 人口が増加しないのに、戸数だけが増加しているということは、一戸当りの平均家族数が減少していることになる。一戸当りの平均人数の推移をみると、宝暦六年が六・七人であるが、寛政、天保と漸次減少して、安政三年には五・一人、明治三年には四・三人にまで減少している。家族数の少ない家が増えていたのであるが、その原因として、それまで親兄弟と一緒に住んでいた二・三男が独立して家庭を持つようになったということが考えられる。