中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

四 中津川宿のようす

(一) 宿

天保期[一八三〇 一八四三]の木曽一一宿と東美濃五宿の中で占める中津川宿の位置は、各宿設置の条件や生活基盤が異なるので人口の多少、宿高などで宿駅の格付けはできないが、次の通りである。
 宿高の一三三四・六五石は鵜沼、太田宿に次いで三番目に高く、宿町並の一〇町七間は一番長い。人口の九二八人は、上松、奈良井、藪原、野尻、福嶋に次いで六番目であるが、宿内総家数の二二八軒は、奈良井、上松、藪原についで四番目に多く、旅籠屋数の三〇軒は、大井、上松、三留野、妻籠に次いで大湫宿と共に五番日である。
 <家数>前述のような位置にある中津川宿の家数の増減推移をみると、寛文五年(一六六五)が一七五軒で、天保一四年(一八四三)が二二八軒、万延元年(一八六〇)が二四三軒と幕末になって増加の傾向にあるが、宿町並の表通りの家数は一七二軒という記録もあり増加はしていないということができる。幕末になっても宿町並の長さが一〇町七間と変わりがなく、宿町並の屋敷地割が決まっているから、原則的には表通りの家数は変化がないはずである。一つの屋敷を二、三軒に仕切って使用したり、空屋ができて家数が若干減少することがあったので、一七五軒を前後していたようである。また幕末に家数が増加していくのは、小路にそって南北に家ができたり、裏道の方に家ができていったためではないかと考えられる。
 <人口>宿の人口については、動態がわかる記録が少なく、しかも中津川宿内の人口と中津川宿村全体の人口が区別されず、時には宿村の人口が宿の人口として書上げ(報告)されたようである。したがって元禄一六年(一七〇三)の宿内家数一七五軒は、言葉通り宿内のみの家数で、男女の計の二三二一人は宿村全体の人数ではないかと思われる。
 寛政一二年(一八〇〇)、文化八年(一八一一)、天保一四(一八四三)の人口だけで、江戸時代の中津川宿の人口について明確に把握することは困難であるが、宿村全体の人口が宝暦一三年(一七六三)から明治三年(一八七〇)まで、二二〇〇人前後とあまり変化ないことを見ると(中津川村の概要参照)、宿内の人口も寛政一二年(一八〇〇)以降は、一二二〇~三〇人前後ではなかったかと推察できる。天保一四年(一八四三)の村人口、宿人口共にかなり減少しているのは、天保の飢饉の影響であろう。

中津川宿の家数・人数の推移


中津川宿の旅籠屋数

<旅籠屋数>旅人に宿(やど)や夜具、食事を提供する旅籠の数は、寛政年間以降は三〇軒前後であり、大中小の三段階に分けて記録されている。旅籠屋を営む権利は、伝馬役の義務を継続的に遂行できるように伝馬役を負担する者に与えられたと考えられ、伝馬役の数が増加しない限り、その数を増すことができなかったと推察される。
 木賃を支払い、自分で食事をまかなう木賃宿、商人宿などもあったが、その数などの記録は未発見である。