中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第二節 中津川宿

四 中津川宿のようす

(一) 宿

中津川宿の町並は、「下町 横町 本町 新町 淀川町 茶屋坂町」に分けられていたが、もう一つ別に「上ハ町・下タ町」という分け方があった。このことが明確に書かれているのは、宝暦六年(一七五六)の中津川村「高寄帳」で、その中では高持(者) (田畑・屋敷の所有者)が、下タ町・上ハ町・中村・実戸村・子野・上金・北野・川上に区分して記載してあり、下タ町、上ハ町の高持の書き出し部分と高合計部分抜き書きすると次頁のようになる。下タ町、上ハ町の高の合計六四四石六斗三升(町分の石高)が中津川宿の石高であり、「高寄帳」が、はっきりと上ハ町、下タ町の区分をしている。
 
    下タ町    上ハ町
一高壱石七升五合小左衛門分市兵衛一高三石弐斗五升弐合長助分八兵衛
一残高壱石九升七合三五郎分勘四郎一高壱石五斗三升四合茂右衛門分喜八
一高四石弐斗弐合嘉兵衛分和七郎一高壱石八斗三升四合徳兵衛分柳蔵
一高弐石三斗三升五合弥右衛門分杢右衛門一高弐石五斗八合小兵衛分岩井宗七郎
(以下略)(以下略)
〆三百拾三石三斗九合 〆三百三拾壱石三斗弐升壱合
高合六百四拾四石六斗三升

 弘化三年(一八四六)に書かれた「萬記」(市岡家文書)には、高一三三四石六三四の内、上町分高三三二石六六二、下町分高三一三石一と、下町分・上町分と書かれているが、これは「上ハ町分、下タ町」分であり、町分の高を二つに区分したものであろう。
 寛文七年(一六六七)地頭山村甚兵衛から市岡長右衛門に宛てた「勘定仕上ケ書」に、「中津川下町幷中村 薄野川上年納払方、万治三庚子ゟ寛文四甲辰まで五ヶ年分、其方書上ヶ之通□勘定相究……」とあり「下町」という地名が出ている。「中川旧記」にも「万治 寛文 延宝迠ハ町上下 中村 実戸 三村[上金、子野、北野]五人位ニ而割代官也」と書かれている。この中の町上下というのは、上町 下町とも解釈できるが、中津川宿には上町は存在しないので、町上下とは「町の上と下」ということであって、上ハ町 下タ町のことを言っていると考えられる。さらに「御休泊留記」には、上ハ町、下タ町について次の例がある[傍点筆者]。
 
 嘉永六年(一八五三)「彦根少将様御登り……御関札(東ハ)淀川下タ町 (西ハ)下町和右衛門表二ヶ所建申候」
 文久二年(一八六二)六月二〇日~二四日 「長門中将様御上京……御関札弐本 淀川下タ町西ハ町端立申候」
 安政三年(一八五六)五月二三日 「彦根中将様御登り……御関札(略)西ハ上町志水屋蔵前ニ西へ少シ向 建ル…」
 
 と、安政三年・文久二年の記事には、下タ町と上ハ町がはっきり区分して書かれている。志水屋は現在の間酒造であるから上町(かみまち)ということはあり得ず、志水屋は下町にあるけれども、中山道の南側にあるので「上町(うわまち)」である。
 中津川村は北に向かって低くなっていく扇状地であるので、中山道より南側は漸次高くなっていくから南側(南東)を上といい、南側町並を上ハ町(上町)といった。また北側を下といい、北側町並を下タ町(下町(したまち))と呼んだのである。従って下町(しもまち)に上ハ町があり淀川町に下タ町があっても不合理ではない。
 この呼称は江戸時代前期だけでなく 幕末まで使われていた。現在においても本町通りを垂直に横切って南北に流れている用水路のうち、四ツ目川に近い用水路に沿って南側へ行く小道を上ハ小路(うわしょうじ)、北側へ入る小道を下タ小路(したしょうじ)といい、上ハ町 下タ町の呼称は生きているのである。また、中津川宿には二軒の問屋があり、北側の町並にある問屋を下問屋、南側にある問屋を上問屋といった。