中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

三 中山道の道筋

みだれ橋を渡って前方に見えてくるのが四ッ谷(恵那市武並町)の集落である。道は狭いが舗装してある。
 道の両側に人家があり、家の周りに庭や耕地が広がる。途中で左へ折れる道は野井から岩村へ通ずる道である。歩いて行く道は塞神の橋を渡って右へ曲がり、坂になる。集落を出外れても道ぞいに田畑が広がる。当時は出茶屋があり、駄菓子や琵琶湯糖などを売っていたと伝える。
 
 <中山道筋道之記>
 四ッ家 竹折村百姓一軒 他ハ右之方久須見村 左之方竹折村百姓家七軒
   大井宿端ゟ此所迄一り十五丁
 岩村通 竹折村之内四ッ家高札場ゟ往還登り 左之方へ入岩村城下へ道法三り
 かくれ神坂 竹折村地内大井ゟ登り坂三丁程
   大井宿端ゟ此所迄壱り十七丁
 同所土橋 [長壱間巾八尺]
 <壬戌紀行>
  是より下りゆく坂の名をとふにしらず 人家一二戸あり よつやといへる所にや
 
 四ッ谷の集落の大方は道に面していて、中野からずっと家や人を見なかっただけに、何か安らぎを感じる。家の周りに畑があり、花も咲いていて人の生活の営みの暖かさを感じる。四ッ谷の集落を西へ抜けると、道は北向きの坂になる。
 道の両側は背丈以上のかやが茂り、いく度も夕立に洗われた路面は、こぶし大の石がごろごろところがっていて歩きにくい。やっと坂を登りつめると道は西へ曲がり、平坦地となる。道は畦と見違えるほど草が生い茂り、前へ出した足のおろし場所を考えながらすすんでいく。左手は道より一段低い山あいの土地に細く長く田が続く。道が中段に位置し、右手はなだらかに下ってきた山すその木立が道に接している。珍しく真直な草道をすすんで行くと、前方左手の田がとぎれた所に紅坂の一里塚(昭和三四年指定県史跡)が見え、よく見回すと右手にも、こんもりとそれとおぼしき物が判明する。右の塚は塚に生えている樹木と塚の周囲の樹木が全く同じであり、塚の上だけでなく斜面にも生えているため、少し離れると見分けがつきにくい。左の塚は高さ三m余りあるが道路側がくずれて、斜面の凹凸が甚だしい。塚の上および周囲の樹木は右の塚ほど一様でなく、幾種類もの雑木に覆われている。右の塚の高さは二m余である。
 紅坂の一里塚を通り過ぎると、道は急坂の下りとなる。坂の中程は土砂の流出を防ぐためにコンクリートで固めてある。両側に松の大木が立ち並び、落葉が根本を覆い隠すほどである。道幅は先程と比べ、心もち狭い。坂の途中に「牡丹岩」と呼ばれている花崗岩の露頭が見られる。やがて川を渡ると右手に家が見えてくる。こゝは最近改築されたばかりの現代風の家になっているが、かつては「馬茶屋」と言われ、今は六代目という。昔の家は、日ざしや雨を防ぐため軒が深くしてあり、馬つなぎがあって、家の中には一〇畳の広い庭と八畳の間が六部屋もあった。馬方は馬つなぎに馬をつないでおいて、茶屋の中で食事をしたり一服したりして長い道中の疲れをいやしたものである。
 馬茶屋のすぐ西に「ふじ道」と彫った石の道標が建っていて、北へぬける小径が竹やぶの中に消えている。
 
 <中山道筋道之記>
 一里塚 竹折村地内
   大井宿端ゟ此所迄一り廿町廿八間
 紅坂 岩村領藤村地内大井ゟ下り坂二丁程
 同峠 右同断 出茶屋四軒
 同所土橋 [長二間巾八尺]
 <壬戌紀行>
 やゝ下りゆきて 又黒すくもといふ坂をのぼる 猶のぼる坂をべに坂といふ 左のかたに蘆のかりぶきして餅うるうば三人ばかりあり 一里塚をこえて大井までいくばく里ととふに 二里ばかりありといへば 又輿にのる
 
 馬茶屋を通り過ぎ西へすすむと舗装された道は下りの坂となる。坂を下って行くほどに、前方右手が大きく開け、ここかしこに人家も散らばっている。坂の中程道に面して右手に「太秋金三社 嘉永七年」と刻み、菊の紋章を印した常夜灯が建っている。右へ入る道は神明神社に通じている。神明神社の境内に芭蕉の句碑が建っている。常夜灯の向いに佐倉宗五郎大明神と二十二夜念仏碑、奉四国西国巡拝供養塔が建っている。
 この近く、道端に茶屋を営んでいた家があったが、今は建て替えられてしまっている。更に坂を下ると目の前に田が広がり、右手に県道に沿って平坦な田が遠くへ連らなっている。道は右へ曲がり、藤川を渡って真直にすすむと道に面した右手に家が並ぶ。