中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

三 中山道の道筋

道は恵那市岡瀬沢へ入って再び登り坂になる。登りつめた所に坂向のバス停があり、坂道を下ると濁川である。左右へのびている立派な道路は、県道恵那・黒川線と国道一九号線に通じる新しくできた二車線の農道である。濁川の筋違橋を渡ると、しばらく両側に人家が立並び、古い構えの家も混じって見える。
 
 <中山道筋道之記>
 大井村之内
 岡瀬沢 往還通百姓家三拾七軒
 
 道に面して軒をつらねる集落がとぎれた辺りに三叉路がある。右手へ下る道は木曽川を越して並松で飛驒街道へ通じる南北街道である。現在は美乃坂本駅の西から丸岩、岩屋堂を通り木曽川にかかる美恵橋(昭和五八年流失し、昭和六一年上流に架橋)を渡って苗木三郷を経て並松へぬけるその道がその役割を果たしている。
 中山道は勾配を急に上げ、左へ大きく曲がる。旧道はやゝ狭く真直に上る道で、今も残っている。旧道と新道はすぐ一緒になって西へ上り坂となる。甚平坂であるこの辺りは道の両側から木の葉が道へ覆い被さり、夏は涼しく昼なお薄暗い坂道である。坂の頂上付近は、明治一三年明治天皇が御巡幸の折きり下げて、急坂をやわらげたということである。
 
 <中山道筋道之記>
 根津甚平坂 同村之内中津川ゟ登り坂弐町程下り坂拾間程
 <壬戌紀行>
 一里塚をへて右のかたにすこし引入て石塔あり 文字なし これ禰津甚平の墓なりといふ
 
 坂の頂の左の石段を登ると根津神社がある。信濃国の住人根津甚平是行を祀った神社で、甚平坂の名は鎌倉時代に逆のぼってあったと言われている。
 この辺一帯に石造物がかたまって多くあり、鎌倉時代と推定される高さ一・八mの花岡岩の宝篋印塔(昭和四四年県指定文化財)、安政三年(一八五六)の馬頭観音、石塚、経王書写塔、南無妙法蓮華経の題目塔が建っている。根津神社からは視界が開け平坦な道が西へ続く。こゝは関戸である。大井の一里塚が道の左右にあったが、現在その一片さえ残っていない。
 
 <宿村大概帳>
 一里塚 壱ヶ所 木立[左榎右松]
   但左右之塚共大井宿地内
 <中山道筋道之記>
 一里塚 中津川宿ゟ此所迠弐り九丁四拾七間
 
 しばらく続いた平坦な道は、長い急坂の下りとなる。右手の鬼子母尊神の前を過ぎ、県道恵那峡公園線と合流する。坂の中程左手に大乗妙典塔、題目塔、馬頭観音、五輪塔が立ち並んでいる。ここを長石塔と呼んでいる。元治元年(一八六四)一一月二八日、水戸浪士の通行の折、大井宿長石塔で乱法之者一人を手打にし埋めたと太田町吉村家文書に記してある(市史・中巻別編八三二頁)。長い坂を更に下り中央自動車道の架橋を渡る。右手にある菅原神社の前を通り石段を降りると右に文政九年(一八二六)の自然石の馬頭観音がある。中央自動車道の工事でここへ移されたものである。道をすすむと大井上宿の石仏群が右道端にある。地蔵、痰切地蔵、名号塔、徳本念仏塔、五輪塔、庚申である。右手少し入った所のこんもりした木立は庚申堂があった跡である。明知鉄道のガードをくぐると長国寺へ入る道があり、道の角に高さ二・一mある享和三年(一八〇三)の名号塔が建っている。長国寺は僧行基の開創によるもので、その後荒廃し、文治年間に根津甚平是行が再興、永正年中に兵火にかかり、天正に至って修復、慶長年間に土地を移転して寺堂を建て、改めて禅寺とした。恵那市長島町正家字寺平という高台に廃寺跡があり、塔の土壇石、鐘楼跡等から見て大刹であったと推定され、この古寺が移る前の長国寺であろうと伝えられている(恵那郡史)。恵那市史は行基草創の年を大宝二年(七〇二)、根津甚平再興の年を文治三年(一一八七)とし、曹洞宗尾張国春日井郡大草村福厳寺の末寺、境内の規模は東西三五間、南北一六間と記している。
 道の両側に人家が軒をつらね、用水路が道の左側を流れる。道の右側に大井宿高札場があったが、今は民家が建っている。
 
 <中山道筋道之記>
 上宿 同村之内往還百姓家拾八軒
 連(れ)んげし坂 大井宿入口下り坂十四、五間
 
 この辺りは舗装されているものの道幅狭く坂道で、昔の趣が残されているように感じられるところである。道が急坂になって下る。この坂は中山道筋道之記では連んげし坂、恵那市史史料編表紙裏の地図では五助坂となっているが、近くの老人の話では御(ご)判形坂と呼んでいたということである。急坂の中程右手石垣の上に年代不詳の馬頭観音が建っている。