中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

三 中山道の道筋

中山道が新しい車の道を横切ると小石塚の立場の跡である。
 
 <中山道筋道之記>
 小石塚立場 同村之内百姓家七軒内壱軒手金野五軒千旦林壱軒駒場
 小石塚   中津川ゟ下り坂三十間
       橋壱ヶ所  長三間  巾八尺
 <壬戌紀行>
  こしつかの立場なり 此立場の坂上に千旦林手金野村境といへる榜示あり
 
 道は小石坂の右手にある鷹見家の前を下る。鷹見家は茶店を営んでいて、その名残りは家の構えに今も見られる。「中津川分間延絵図」では道の反対側に茶屋と書いてあり、道の両側に茶屋があったとも考えられる。同絵図の茶屋の跡地に大きな井戸が残っていたが、危いため埋められてしまった。道の左手、同絵図に記してある茶屋近くに恵那山道と彫った自然石があって、恵那山へ登る道の入口を示していたが、いつの頃か持ち去られてしまったという。鷹見家の西に古い樫の木があり、その奥の小高い所に嵐讃岐の板碑がある。この板碑は高さ一・二m、巾五二cmの大きさで、「空風火水地喝 月翁字清禅定門 十三回忌辰嵐讃岐 寛永三年初夏念日 孝子八男建焉」と刻んである(第一章第一節参照)。この板碑は市内で唯一のものであるだけでなく、一般的にも五輪塔から板碑に移行した時代を示す貴重な資料である。地名になっている小石塚は、小石坂の西麓の小道を南へ二〇〇m程入った左手のひのき林の中で、サンライフ中津川から真直に西へ下りた斜面に位置する。この辺り一帯の古い地名を「つかがひら」とよび、古墳が一基発見されている。小石坂を下った辺りは新旧国道一九号線中央自動車インターの分岐点になって道幅も著しく広く、およそ五〇〇mにわたって昔の道の跡は見られなくなっている。昭和四七年西垣外遺跡の発堀調査がおこなわれ、中世・近世の遺物が出土した。
 ここから道は下る一方である、与ヶ根の右手道端に明暦三年(一六五七)の六面幢六地蔵がある。傍の南無阿弥陀仏の碑は宝永六年(一七〇九)のものであるが廃仏毀釈のとき破損を被りセメントでつないである。道は緩やかな坂を下る。途中、道を左へ入り少し上った所に天保二年(一八三一)の観音講の碑がある。

Ⅵ-38 六地蔵石幢と供養塔