中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

三 中山道の道筋

下町からまっすぐに中津川橋を渡る道は新しく付替えられたもので、昔の中山道の道筋ではない。旧国道一九号線が出来るまでは、この道を大井町(恵那市)へ行くバスが通っており、中津川橋の東たもとにバス停を示す鉄製の標示板が、少し前まで置き去りになっていた。橋場を過ぎると駒場の街並みに入る。連子格子を取り付けた窓、蔀戸のある家も並んでいる。
 
 <中山道筋道之記>
  石屋坂 駒場村之内中津川ゟ登り坂三拾間余と中津川宿端ゟ此所迠四町四拾五間
  駒場村 往還通故右百姓家四拾弐軒
  中津川宿端ゟ此村中央迠六町弐拾五間 但往還右之方村扣木曽川境向苗木領左之方恵那山
 下駒場村土橋 [長四間巾壱尺]
  中津川宿端ゟ此所迠九町拾五間
 上駒場坂 駒場村之内中津川ゟ登り坂五拾間
  牛頭天王一社 同断往還登右之方五丁程入
  東光山福昌寺 同断左之方三丁程入
  水晶ヶ根 同断右之方へ廿町程入己前水晶石幷雲母出ル由
  一里塚 同村地内 中津川宿端ゟ此所迠拾壱町五拾九間
  御嵩(おんたけ)山 同村之内ゟ右之方ニ見ル
 <濃州徇行記>
  此村は中山道筋にあり 手金野村よりつづき也 街道は長十六町一間かかれり 平衍の地にして田圃土地よくみへたり 民戸は街道筋より戌亥の方へ付処々に散在せり 尾鳩 上宿 中切とわかる。小百姓ばかりなれども村立は大体よき処なり 地頭「陽免」四ツ六分ほどに附くよし しかし手金野あたりより佃力不足耕耘村限にてはゆきとどかずと云先年は貧村なりしが近来は漸々成立全体土風よき処なるよし
 
 平地を過ぎ、やがてさしかかる坂は石屋坂である。坂の手前で道が二手に分かれる角の所に、以前は東向きに家が建っていたが、今は無い。坂の中程右手に文化三年(一八〇六)の馬頭観音、文化一三年(一八一六)の名号碑などが建っている。背後は斜面で竹やぶになっており、石仏群のすぐ上道端に以前は清水が湧き出ていたが、今は土がくずれ落ち、水も涸れ、周りは湿り気さえもない。

Ⅵ-34 石屋坂の石仏群

 道から清水の出ていた所へ渡る石が一つ、溝にかぶさるようになっているのが唯一の名残りである。
 坂の頂の所を元の国道一九号線が通り、坂から駒場下町へ続く風情が二つに切られてしまった。車の流れの間を縫って向こう側へ渡る。ここからしばらくは道が平坦になる。道は直角に左へ折れ、またすぐ右へ折れる。駒場下町の枡形である。
 この辺りは、大道上、町裏の字名や駅田としての耕地の広さが充分あることなどから、東山道坂本駅の駅跡であるという説がある。
 最初に左へ折れた道をそのまゝまっすぐ三百m程行った道の左手に文化一四年(一八一七)建立の徳本の碑がある。

Ⅵ-35 藪坂 徳本名号碑

 米田川を越した中山道は、間もなく再び崖に突き当たる。崖を登るつづら折りの坂道はこでの木坂である。「中山道分間延絵図」によると「小手ノ木坂」と記してある。坂の頂右側に正徳四年(一七一四)の馬頭観音、文政二年(一八一九)の名号碑など二〇基ばかり集められている。「是より苗木道」と彫った双頭一身道祖神は文化一三年(一八一六)建立のもので、昭和五七年市の文化財に指定されている。この石仏群の東端から北へ向かう道が分れている。崖の端に沿って北へすすむと、東の方の展望が開け、恵那山、富士見台を背景にした中津川市街地が一望できる。前山から木曽川へ向かって、かなり急な角度で作る扇状地の上に形成された市街地と、それに続く新しい住宅地の広がりがわかり、有史以来何回となく住宅に挑みかかり、災害を引起こしてきた四ッ目川の流れの傾きが見てとれる。

Ⅵ-36 こでの木の石仏群

 苗木への道について「中山道分間延絵図」では、「山道苗木城下江モ出ル 道法弐拾九丁余」とある。道は青木稲荷の前で下へおりる。青木稲荷の境内中央のこんもりした所は円墳であり、その近くに文化四年(一八〇七)の常夜灯、文化一二年(一八一五)の「右なへ木道 左やま道」と彫った庚申塔がある。
 
 <濃州徇行記>
  此村は阿木川筋中山道通りにあり 是より木曽川上地の渡を越苗木城下を通り 付知、加子母へかゝり 飛驒国御馬屋村へ出る路あり
 <宿村大概帳>
 一 此宿ゟ大井宿迠之内壱里塚三ヶ所
   壱ヶ所   木立榎
    左右の塚共駒場村地内
 一 此宿ゟ大井宿迠之間往還通村々並木
   宿内   九百三拾弐間    中津川宿
   村内   拾間        駒場村
   村内   三拾間       手金野村
 
 坂の上は駒場村上宿(かみじゅく)である。恵那山や富士見台の山々を背にしながら、こでの木の石仏群から西へ三〇m程行くと、道の右側に江戸から八五番目にあたる上宿の一里塚がある。一里塚は道をはさみ、やゝずれて左右に一対あるのが元の形であるが、新茶屋の一里塚も、この上宿の一里塚も共に南側の塚が消滅し北側だけ復元し残っている。この上宿の一里塚は昭和九年に復旧されたものであり、その規模は元の塚の三分の一くらいの大きさである。

Ⅵ-37 上宿の一里塚跡

 上宿は南の保古山より続く山すその先端部に位置する集落で、等高線と並行して走る平坦な道の両側に並ぶ家々の集まりである。長い間飲み水に不便であった所で、戸数の増加をみなかった。上宿の左手は今でこそ一面に田が広がり、その間々に家が見られるが、以前は一段高い上原との間は杉・檜の林が続き、向こうが見えなかったということである。しばらくは、ほぼ一直線で起状のない道を西へすすむ。右手少し離れて見える集落は後田で、後ろに続く小高い山を登ると西山の台地へ出る。北や西へ傾いて広がる広大な土地には中世の古窯跡があったが、現在は栗畑が続き落花生の畝が木曽川へ向かって伸びている。
 道を西へ行くと谷への下り坂となる。会所沢坂と呼ぶ。最も低い所に水量の少ない小川があり、橋を渡って右へ少し行くと、今度は左へ大きく曲がって上る牛洞坂の急坂がある。この辺り、道の両側に並木が立っており、切り倒された後は道が舗装されるまで、しばらく切株がそのまま道ばたに残っていたという。
 
 <中山道筋道之記>
 かい志ょ沢橋 [長弐間巾九尺]
   手金野村地内百姓家三軒
 かい志ょ沢山 右村地内中津川宿ゟ登り坂壱町弐間
 
 坂を登りつめると左手にサンライフ中津川が見えてくる。戦前は、この辺り一帯木の茂る山であったが、太平洋戦争の最中に開墾し、戦後は開墾した土地にスポーツセンターが建ち、市営住宅をはじめ民家も増えてきた。昭和五三年、現在の国道一九号線がバイパスとして一部通じたため、旧一九号線・二五七号線バイパスから名古屋方面へ向かう車は、中山道を横切って坂を一周する。