中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

三 中山道の道筋

滝場から横町・上町・中町・下町とつづくが、横町は枡形になっていて、上町との角に寛政四年(一七九二)の常夜灯がある。
 寛永二年(一六二五)の宿方明細書上では、町の長さ三町三五間、家数大小八〇軒とある。宿内の道の中央を用水が流れ、町の中程に向かい合って本陣・脇本陣があった。本陣井口家は千村方、脇本陣塚田家は山村方のそれぞれ庄屋をしており問屋も兼ねていた。

Ⅵ-21 落合宿の家並

 道の右手にある本陣井口家の門は、文化一二年(一八一五)三月の大火後、加賀の前田侯より火事見舞として贈られたものと伝えられている。居宅は二階建の土蔵造りである(明治一七年改修)。昭和五四年中津川市史跡に指定された。左手奥に上段の間があり、近くに非常用の抜穴が作ってあって、善昌寺裏へ出ることができた。

Ⅵ-22 落合本陣の門

 その他、大名の泊る本陣らしく、様々な警護のための工夫が凝らしてある。本陣は大名や公家だけでなく、一般の旅人も泊めたことが文書で明らかにされている。宿について記した様々なものを挙げてみると、
 
<濃州徇行記>
 宿は町つづきにて辰巳の方より戌亥の方へさし長三町卅五間あると云 小駅にて貧戸多し 宿内家七十戸ほどあり左右に旅籠屋多く建ならび 近来家悉く破壊して見ぐるしき宿場也 商家もなく別して匱乏にをよべり 宿内を中町 下町と称来る北の町はづれを横町、瀧場と云 それより落合川にかかる
<宿村大概帳>
一 宿内往還長三拾四町六間  道幅[弐間ゟ三間迄]
  是ハ尾州ゟ普請仕来
<濃州徇行記>
問屋場二ヶ処 内一軒は居宅 一軒は長屋にて勤め 荷附小屋なし
<濃陽志略>
戸口 戸百五十二 口八百五十
<中山道筋道之記>
宿内惣家数 七拾六軒
<村明細帳>
家数八拾弐軒 人数[男百七拾壱人女百九拾弐人]
<中山道宿村大概帳>
宿内惣家数七拾五軒
  内
 本陣   中町  壱軒
 脇本陣  中町  壱軒
 旅籠屋  拾四軒
    大 四軒
  内 中 五軒
    小 五軒
 
 下町の喜翁山善昌寺は慶長五年(一六〇〇)の創建といわれ、曹洞宗で武儀郡関村(関市)の龍泰寺の末寺である。善昌寺はもと町から向坂へ曲がる北の正面にあったが、明治二四年の改修工事で山口村へ通ずる道にしたために現在地へ移転した。境内には元禄八年(一六九五)の弥勒像、享保一〇年(一七二五)の名号碑、文化一三年(一八一六)の常夜灯がある。また、宿内、道の左手へ入った所にある中央山高福寺は浄土宗で京都智恩院の末寺である。
 下町角の大きな石の道標は大正一一年に建てられたもので「右至中山道中津川一里」と刻んである。道標のある角を左に折れ、坂を下り板橋を渡ると田中へ出る。「落合地内町並少し離百姓家六軒」と中山道筋道之記にある。やゝ急な上り坂は向坂という。「百姓家拾弐軒」(中山道筋道之記)とある。向坂を上ると下りになり国道一九号線へ出る。国道一九号線は堀割を通っているが、その小高い所が「オガラン」と呼ばれて、落合五郎が住んでいた所と伝えられている。
 
 <中山道筋道之記>
 同所落合五郎旧跡 往還登り右之方
 落合宿端ゟ此所迠二町四間往古落合五郎兼行と申人居住ノ地と由申伝迠ニ而只今愛宕之小祠あり
 
 落合五郎兼行については、出生、居住地、行状等総て諸説があって決定づけるものがない(市史上巻参照)。中津川との関係では、木曽義仲が駒王丸といっていた幼少時の養父中原兼遠の子がこの兼行で、木曽義仲が側近の家来として落合に居住させ、その地一帯の地盤を固めたと伝えられている。今、ここには愛宕神社、天神社、山の神神社が祀ってある。境内には元禄一〇年(一六九七)の地蔵、文化一〇年(一八一三)・慶応三年(一八六七)の常夜灯、大正六年(一九一七)建立の「落合五郎兼行の城跡」の碑がある。昭和六一年発掘調査により縄文遺跡と古代の柱穴跡の遺構が確認された。道はオガランの南下の低い所を通り、一時平坦な道を西へ進む。宿村大概帳では「一此宿ゟ中津川宿迠之間往還通並木 宿内両側百四拾四間」と記されているが、どの辺りであったか定かでない。