中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

二 落合宿・中津川宿付近の中山道

中山道の橋の様相について、元禄三年(一六九〇)の中津川村橋数書上げを見るとⅥ-3表のようである。

Ⅵ-3 中津川宿地内中山道の橋の種類・規模・普請 (元禄三年)

 元禄三年(一六九〇)に、中津川市内に架設されていた橋は、板橋が一一、土橋が一で圧倒的に板橋が多かったことがわかる。橋の長さでは、三尺~四尺の橋が三、一間~二間の橋が七、三間の橋が一、一二間の橋が一である。長さ二間以下の橋が橋数一二のうち一〇を占めて圧倒的に多く、長さ二間を越える橋は二脚にすぎない。一番長い橋は西川(川上川か)にかかる橋で一二間であった。橋の幅では、六尺(一間)から八尺までの橋が半数の六、一間半~二間の橋が六となっており、すべての橋が幅一間~二間である。普請の面では、一二の橋のうち一〇までが「中津川村よりかけ」る橋で、村が普請を行っている。他の二脚のうち、四ッ目川にかかる板橋は、地頭の山村甚兵衛が普請を行い、西川(川上川)にかかる板橋は、中津川村の地頭山村甚兵衛と対岸の駒場村の地頭千村平右衛門の立会普請であった。
 元禄九年(一八九六)に中津川村より尾張徳川家に提出した書類に次のような文面がある。
 
  一 中津川町之内ニ橋七ヶ所
     内 板橋二ヶ所 地頭山村甚兵衛支配
       板橋三ヶ所    町ゟ支配
       土橋二ヶ所    同 断      (市岡家文書、元禄九年中津川ゟ落合境・大井境迠道筋井坂書付)
 
「地頭山村甚兵衛支配」は、元禄三年の「山村甚兵衛殿ゟかけ直し被下候」ということと同意であり、下段に示した「宿村大概帳」の中の「地頭山村甚兵衛より普請」とも同意であったと考えられる。また同様に「町ゟ支配」というのは、元禄三年の「中津川村よりかけ申候」と同意であり、「宿村大概帳」の「自普請」と同義であると考えられる。
 同じ中津川宿地内の橋について、天保~安政期(一八三〇~一八六〇)の様相を「宿村大概帳」より抜書すると、Ⅵ-4表のようになる。

Ⅵ-4 中津川宿地内中山道の橋の種類・規模・普請 (天保~安政期)

 天保~安政期の中津川宿地内の中山道にかかる橋の様子をみると、橋の種類では、石橋が六、土橋が五、板橋が二となっており、元禄三年と比べると石橋と土橋が多くなっている。橋の長さでは、三間~六間の橋が六、四尺~五尺の橋が六で、双方とも増えている。橋の幅も、一間半前後の橋が四、二間~三間の橋が九脚で、二間~三間の橋が多くなっている。
 元禄三年の橋のうち長さ一間~一間半、幅一間~一間半の板橋・土橋は、長さ四尺、四尺五寸で幅二間~二間五尺の石橋に変わっている。長さ三尺、幅二間の板橋も、同じ大きさの石橋にかわっている。用水路にかかる短い板橋は、幅二~三間の石橋に変わっている。一方、長さ一間半~三間、幅七尺~一間半の板橋は、長さも幅も大きくなって、三間~六間の土橋や高欄付の板橋に変わっている。これらの例を図式で表わすと
 
[元禄三年][天保~安政期]
(字名)(橋の種類)  (長さ) (幅)(字名)(橋の種類)   (長さ) (幅)
小淀川板橋 一間半六尺 → 小淀川石橋   四尺五寸二間五尺
子野川板橋 二間七尺 → 子野川土橋 四間一間半
淀川板橋 二間八尺 → 淀川高欄付板橋 四間三尺二間
四ッ目川板橋 三間一丈 → 四ッ目川高欄付板橋 五間六尺(六間)  九尺(一間半)
小沢板橋 一間半七尺 → 小川土橋 五間五尺二間
西川(川上川)板橋一二間二間 → 川上川土橋二四間二尺二間

 因(ちなみ)に川上川(かおれがわ)(中津川)にかかる橋は、元禄三年に長さ一二間であったのが、天保~安政期には二四間二尺と二倍の長さになっているのである。
 普請の面では、元禄三年には地頭の普請は二つの橋であったのが、天保~安政期には、淀川にかかる板橋と往還筋小沢又は字小川(下町を流れていたと言われる畔(くろ)沢川と思われる)にかかる土橋の二つが地頭山村甚兵衛の普請となり、地頭普請の橋は四脚に増加している。
 板橋から石橋・土橋へと橋の永久化・耐久化が進み、橋の長さや幅がやや大きくなって橋の規模拡大が進むという形で道路の整備が進んでいった。しかし、寛文五年(一六六五)の中津川町覚書によると、「中津川西之入口ニ中津川ノ河御座候 山川に御座候ヘハ俄ニ大水出 橋流一日二日通路とまり申義御座候御事」(市岡家文書)というように橋が流れてしまい、一両日通行ができないことが度々あり、享和元年(一八〇一)の中津川宿書上の「西入口河上川板橋」の付箋には、「文化五(一八〇八)辰七月流出故 仮橋ニ而御座候」(市岡家文書・享和元年御分間書上帳)という状況が続くこともあった。