中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

一 成立と性格

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、翌六年、全国統一政策の一環として彦坂元正等に命じて東海道を巡視させ、品川郷を宿駅と定めることを始めとして、多くの宿駅を指定し、各宿には一日に伝馬三十六疋ずつを提供する義務を負わせ、その代償として地子を免除する等を行って、東海道に宿駅制度を定めた。中山道に対しても、腹心の代官・大久保十兵衛長安に命じて、一部で中山道の整備と宿駅の制定に着手し、慶長七年(一六〇二)には宿駅・伝馬制度を実施していったと考えられる。中津川・落合宿には、この間の史料が見当らないが、次の項で述べるように、戦国末期の文禄二年(一五九三)の常陸国佐竹家家臣大和田重清の「道中日記」を見ると、既にこの時期に中津川・落合が宿駅の機能をはたしていたと考えられること、慶長七年二月、御嵩(みたけ)宿に「伝馬掟朱印状」が下され、同年六月には同御嵩宿に「駄賃定書」が下付されていること(県史・近世史料編七)、これらのことから考えると、中山道の宿駅は戦国末期にその原型が形成され、その上に、慶長七年徳川家康の下で宿駅制度が定められたと考えるのが妥当であろう(本章第二節 中津川宿の地形と成立参照)。
 中山道六七宿のすべてが、当初から成立していたのではない。例えば、細久手宿は、大湫宿~御嵩宿間が五里という遠隔であるために、慶長一一年(一六〇六)(慶長一二年説も)に新しく設置された(近世交通史料集八)というように、その後成立した宿もあった。六七宿となるのは、元禄七年(一六九四)の美濃国伏見宿の成立によってである。
 万治二年(一六五九)に新たに道中奉行がおかれ、大目付高木伊勢守守久が兼任し、ついで元禄一一年(一六九八)には勘定奉行の松平美濃守重良が加役を命じられた。このようにして道中奉行二名が、五街道とその宿駅をはじめ、幕府の交通関係一切を管轄する制度ができあがったのである。
 中山道は、当初「中仙道」と表記されていたが、正徳六年(享保元年、一七一六)から「中山道」と表記するように改められた。このことについて中津川宿の問屋役で本陣を勤めていた市岡長右衛門(勝政)は、「古来入用書付留帳」の中に「今迠は中仙道と書候得共 向後は中山道と可書事」と書き留めている。「御触書寛保集成」には「五畿七道之内に東山道 山陰道 山陽道いづれも山の字をセンと読み申候 東山道の内の中筋の道に候故に 古来より中山道と申候事に候」と「仙」を「山」とする理由が述べられている。また中山道は、木曽を通るので「木曽街道」ともいわれ、「木曽海道」と書き表わされることもあった。
 日本列島の中央部を縦断し、江戸と京・大坂を結ぶ中山道は、東山道諸国を支配する上で、また西日本諸大名の巻返しに備えて江戸と京・大坂間の役人や兵力の移動を円滑にする上で、江戸幕府にとって東海道と共に重要な幹線道路であった。このことは、古代において東山道が設けられており、壬申の乱(壬申元年=六七二)や承久の乱(承久三年=一二二一)に際して、この美濃国が天下争覇の戦場となったこと、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに徳川家康が子の秀忠を木曽路経由で西上させたこと、慶応四年(一八六八)維新政府が東征のために東山道鎮撫総督の軍を進撃させたこと等を想起すれば十分に理解できることである。また江戸時代において、この中山道が老中、若年寄、京都所司代、道中奉行、幕府巡見使、江戸目付衆、二条・大坂加番、二条御番衆、大坂御番衆、大坂町奉行、京都町奉行、長崎町奉行、飛驒郡代、笠松郡代などの役人や軍隊の重要な通路であったことからも理解できることである。
 中山道は、山中のけわしい道を歩かねばならなかった。江戸初期の儒者、貝原益軒は「岐蘓(蘇)路記」の中で
 「凡信濃路は皆山中なり 就中(なかんずく)木曽の山の中は深山幽谷にて 山そばつたひに行(ゆく)がけ路多し」
と述べている。文化年間に発行された秋里籬島編著の「木曽路名所図会」も、三留野宿の項で、
 「木曽路はみな山中なり 名にしおふ深山幽谷にて 岨(そば)つたひに行がけ路多し 就中三留野より野尻までの間 はなハだ危き道なり (略)」
と、木曽路が山の中のけわしい道であることを述べている。しかし、貝原益軒は前掲書の落合~中津川の記述のところで
 「これより西に猶(なお)坂所々あれども 既(すで)に深山(しんざん)の中(うち)を出て嶮難なくして心やすくなり 木曽路を出て爰(ここ)に出れば 先(まず)我(わが)家に帰りつきたる心地する」
と述べ、美濃へ入って気持ちの明るくなったことを記している。
 中山道は、交通量が比較的少なく、心穏かに旅ができた。「木曽路名所図会」の中津川宿~落合宿のところに、次のような記述がある。
 「落合よりひがし碓日嶺まで四十七里 大略山中にして 坂多けれどさかしき所なし みな山家なるゆへ 人の心直ほにしてひすからず 旅舎のもてなし 他方にくらぶればまめやか也 又山川のかたち 林木のこだち 諸州にすぐれてうるはしく行く人すくなくして 道のゆきゝせハしからず心しづかなり (略)」
東海道は、交通がはげしく、諸大名の通行も多かったために、その差合(さしあ)いもあったが、中山道は行き来する人馬も比較的少なく、心しずかに旅ができたことを表現したものであろう。
 東海道には大井川などの大川があり、歩行による川越えがあり、洪水による川留めで思わぬ日数がかかることがあった。また桑名の渡し、浜名の渡し(舞坂~新居間)などがあり、渡海の難に出あうこともあった。しかし、中山道には、渡船による川渡しはあったが、川留めになることの多い河川も少なく、渡海の難はなかった。
 三代将軍家光以来、将軍の夫人は二人の皇女をはじめ宮家や公家の出身で、その輿入れは公武合体という政策的縁組であったので特に大規模であった。この姫宮の通行はほとんどが中山道だったという。東海道では交通量がはげしくて支障が多い上に、歩行による川越え、舟旅に婦人が弱いので、これらのことをさけたためであろうか。