中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第六章 宿・交通

第一節 中山道

一 成立と性格

中山道は、江戸幕府が管轄する幹線道路である五街道の一つであり、東海道と共に、江戸と京都・大坂を結ぶ最も重要な道路であった。しかし、江戸時代においても、五街道の概念は必ずしも明らかではなかった。宝暦八年(一七五八)江戸伝馬役の馬込勘解由は、五街道に関する大目付依田和泉守番所の訊問に対して、「道中奉行所では度々五ヶ宿ということを承っているが、どの街道を五ヶ宿というか知らない。東海道・中山道・日光海道・北陸道を海道のように覚えているが、これも五海道のうちなのか、もう一ヶ所がどれをいうのか知らない。」と答え、さらに道中方御勘定に尋ねた上で、
 
 一 東海道      品川より守口迠
    美濃路   名護(古)屋より大垣迠
    佐屋廻り  岩塚より佐屋迠
 一 中山道      板橋より守山迠
 一 日光道中     千住より鉢石迠
    壬生通り  板橋より岩渕迠
    水戸佐倉道 新宿より松戸迠
 一 奥州道中     白沢より白川迠
 一 甲州道中     上高井戸より上諏訪迠
  右五口 五海道と申し 道中御奉行御支配ニ
  御座候 以上
   寅十一月     大伝馬町馬込勘解由   (御伝馬方旧記)
 
と報告している。
 これによって、五街道というのは、東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中の五幹線と、美濃路その他の付属街道を含み、道中奉行の支配下にあるということが明らかになったのである。なお、この史料では東海道は江戸~大坂間と答えているが、道中奉行の、五街道の発着点を示す文化年間の見解では、江戸~京都間となっている。
 中山道は、日本の屋根を形成する中部山岳地帯を望みながら、山の狭間や中腹、盆地、平野を貫き、本州の中央部を縦断して江戸から京都に達している。江戸日本橋を出て、板橋宿から本庄宿までの武蔵国の一〇宿、新町宿から坂本宿まで上野国の七宿、信濃国に入って軽井沢宿から本山宿までの一五宿を通って木曽に入る。木曽には贄川・奈良井・藪原・宮越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠の一一宿があり、信濃国には二六宿があった。美濃国には、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須の一六宿があった。柏原から守山宿まで近江国の八宿、合計六七宿が中山道の宿駅である。京都に着くためには草津宿で東海道と合流し大津宿を通らねばならないから、この二宿を加えると江戸から京都までは六九宿である。中山道六九宿というのは、板橋宿から守山宿までの六七宿と草津宿・大津宿を合わせた呼称である。

Ⅵ-1 中山道概念図

 落合宿と中津川宿は、江戸を出て中山道の四四番目と四五番目の宿駅である。美濃国一六宿のうち、落合宿から鵜沼宿までを東美濃九か宿ということもあった。