中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第二節 山論

二 保古山をめぐる山論

享保三年(一七一八)八月二五日 幕府評定所で裁許された山論である。
 評定所は寛永一二年(一六三五)にととのえられたところの、江戸幕府の中央役所で、寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行らが審理する幕府司法の最高の役所である。
 茄子川村は尾張領(尾張蔵入 久々利方、山村方、旗本馬場知行所の入相支配村)、東野村は岩村松平氏領と、支配関係を異にする争いであるから、評定所にもちこまれた。評定所は江戸城内和田倉門外龍(たつ)の口にあった。この山論の検使としては、幕府笠松代官所辻六郎左衛門が行ない、彼の上申を中心に一一名の評定、審理となり、裁許が出されているし、東野村側でも同様保存されている。
 市史中巻別編に、茄子川訴訟文と評定所の裁許文全文、それに主な経過を記載したので、この山論裁許の内容には若干触れるにとどめる(市史中巻別編八二七頁)。
 幕府検使を勤めた笠松代官所の辻六郎左衛門は、山境について「可為峰割之旨申之」と裁許文にあるように、評定所に対して峰割を上申した。これを受けて有名な大岡越前守を含む一一名の評定所のメンバーは「惣て峰割境相立」と峰割境で山境を裁許した。この証拠として裁許文によれば、同山の内で孫九郎扣で大井宿百姓両人へ木草を売った二二年前の証文は、宗門改帳を引合に出しても相違ないから、東野村の持分の証拠は、はっきりしているからだとしている。
 茄子川側が主張した水の手山は茄子川の田地二〇余町歩の用水源として使用しており、水の手山は茄子川の山であるという証拠は却下された。東野村の勝訴で終結したわけである。
 この山論で笠松代官が来たことは、阿木村青野の年代覚書に「去年より東野村と茄子川村と山論 これに依って(享保三年)六月十七日笠松御代官辻六郎左衛門様御越なられ大井宿に御泊なられ論山御見分なられて 同二九日に御帰りなられ候」と書き残されており、この山論に対する周囲の村における関心が高かったことを示している。
 この幕府評定所の裁許は、その関係において茄子川村と千旦林村と手金野村の山論に影響を与えている。