中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第二節 山論

二 保古山をめぐる山論

元禄一二年(一六九九)四月一一日に領主丹羽氏家臣の西山弥市右衛門ら八名の裁定がくだっている。これは元禄一〇年(一六九七)四月三日、中尾山へ木草取りにいった東野村百姓に対して、飯沼村百姓が追出しをかけたことからはじまって、訴訟となっている。
 阿木村龍泉山付近より西へ標高六二〇m程までくだる峯続きで、小野川、飯沼後田川、中尾川によってきられている中尾山一帯をめぐる山論であるが、これは「峯通り」ということで明確に裁許している。その一節は次の通り、
 
 龍泉寺峯通道筋堀切北向ハ東野村山南向ハ飯沼村山ニ相見候条 自ご龍泉寺より堀切迄峯通り道筋境ニ相守可申者也(広岡鷹見家文書)
 
 なお、この裁判には正保の絵図が証拠になっているし、山論とは関係ないが、丹羽氏移封の原因となった山村瀬兵衛も岩村領主丹羽氏の役人として名をつらねている。