中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第二節 山論

二 保古山をめぐる山論

この保古山、根の上の山や谷は、手金野、千旦林、茄子川、恵那市東野、飯沼、阿木の村むらの惣山として、秣、木草を伐刈りして、生活と生産を維持してきた。
 一般的な山論発生の理由に加えて、扇状地形の保古山、根の上一帯は、その争いの可能性を広くしていた。例えば、現在の中央道沿いで、中津川大橋より恵那市境まで、つまり手賀野から千旦林、茄子川をへて東野境まで約六一〇〇mであるが、高原上では前記のように保古山から展望台まで約二一〇〇mである。わが村へ流れおちる川の上流は、わが山といって登っていってみれば、隣村の山と複雑にからみ、その上、山頂一帯は高原状であるから、その境は簡単に決着つけ難くなる。また同じような谷がいくつもあるし、境を画するような大きな川もなく、その上どの村からも自分の山らしくつづいて見える。
 こうして、深沢洞(手金野×千旦林)、鉾(ほこ)平、前平(千旦林×茄子川)、水の手山(茄子川×東野)、中尾山(飯沼×東野)、龍泉寺山(阿木×飯沼)の山境争いとなっている。
 この争いは、特に領主の裁許、隣村の仲裁などによって一時は解決されたことがあっても、村内事情の変化(小前百姓の動き)、支配側の政策などによって、再発しており、明治維新後の近代的土地所有形式の導入によって、惣山の性質が変化するまでの間、つづいたともいえる。そしてその影響は現在までつづいた。
 以下、これらの山論の大略を裁決文書を中心にしてあげてみる。