中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第二節 山論

一 山論

寛文三年(一六六三)一一月阿木村の農民が龍泉山へ薪取りにいったら、斧一丁、鉈二丁を飯沼百姓にとりあげられた。これが阿木村、飯沼村の山論の始まりになっている。このように、山論発生は、山で山道具を取り上げられたとか、棒揃へで追い出されたとかが始まりである。
 この寛文の阿木村、飯沼村の場合では、
 ①山道具をとられた百姓が村役人に連絡。
 ②阿木村役人は代官小栗長兵衛へ御改願上。
 ③翌寛文四年七月二九日、飯沼村は、斧と鉈を阿木村へかえす。
 ④寛文五年二月飯沼村口上書を提出。
 ⑤同年三月七日阿木村証拠提出。
 ⑥同年四月一二日、樋田角太夫、前田佐兵衛、小栗長兵衛など岩村表家老、山奉行、郡奉行、代官名で、この山論取扱いを岩村町問屋松田平八、山田善七、足立仁兵衛に仰付けられる。
 となっていって、城下町岩村町の町役人が両村の仲に入っている。
 このように当局に御改めを願上げても有力な町、村の役人が仲に入って、山論を内談させるようにしている場合が多い。これとは違って、はっきりと判決を下している時もある。この場合に同じ領内の村の場合は、その領限りで終わるが、領が異なると幕府評定所の判決を受けることになる。
 享保の茄子川村と東野村の山論は、支配関係が尾張領と岩村領と異なるので、幕府評定所の裁決となっている。