中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第二節 山論

一 山論

惣山での木草の採取については、村内の百姓が勝手に入込み、採取できたわけでなく、その村ごとに一定の慣習が守られていた。例えば茄子川村では春の山見廻りについて、
 
 (慶応二年)四月朔日 晴
  山見廻り篠原(村役人) 木村(村役人)外坂本中切両町之町代差添 (藤井家日記)
 
 とあって、その年の惣山利用の原則をきめる下見(山廻り)に、坂本、中切など小字(組)の代表が付添っていることがわかる。惣山利用の慣習の中で、もっとも重要なことは、何月何日から採取してよろしいという山の口明であろう。
 同じく茄子川村では「当村年々日を見合、笹山口明け苅来り候」(幸脇家文書)とあるように、その年その年で、笹山の口明けを決定している。慶応二年では、
 
  四月十八日、木草山明
  七月廿八日、そんで笹口明ケ (藤井家日記)
 
 のようになっている。
 千旦林村では、
 
 笹山口明ケ儀往古より定例夏の土用の入候日(天保四年千旦林と茄子川山論文書-(幸脇家文書)-)
 
 とあって、一定であったようにみえる。千旦林村の東隣である手金野村では千旦林村に近い洞(深沢洞)の山口明けについて、宝永四年(一七〇七)の場合、四月晦日(みそか)が千旦林村で、それより一日おそい五月一日というように、千旦林村より一日遅れの山の口明であった(手金野と千旦林山論-(吉田家文書)-)。
 この山の口明けの日に、山へ入込んだら、入込んではいけない隣村の百姓が、すでにそこにいて、秣を刈り荷場を作っていたということで、争いが始まるケースが多い。