中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第一節 林政と林業経営

三 領主の林政と林業政策

(1) 初期の林業統制 早くから伐採の進んだ地域では木材の需要の高まりによって過伐が重なり、山林資源が涸渇して採出に制限を加える必要が生まれて来た。寛永二一年(一六四四)一二月一五日には、湯舟沢山を含む主として木曽南部の山々に対し「但しこの山々の儀は土居(どい)・榑(くれ)・御役木は出し申さざるの筈」として三種の伐採を禁止した。このように採材に制限が加えられ、また一方で角倉与一をはじめとする他国材木商人の締め出しを命じ、山林の保護を一層強めていくことになる。
(2) 寛文期 その後も尾張領は御用商人による伐採を停止したり、運材の統制・管理を強化しながら寛文五年(一六六五)には、行政改革の一環として、林政の改革を行った。この改革の眼目の一つは山村氏に一任していた木曽山林の伐木・運材の支配を領の直轄事業に移すことであった。その山林管理のため上松に材木役所が新設され、同九年には落合に白木改番所が増設され、抜荷の取り締りが強化されていく。その第二の点は留山を指定して、山林資源の保持を図ったことである。寛文五年正月、留山の覚書が山村役所に届けられた。その中には六か所があげられ、湯舟沢山は全山指定されることになる。
(3) 享保期 その後についても種々統制が加えられてくる。宝永五年(一七〇八)には上松の材木奉行である市川甚左衛門が檜・椹・明檜・槙(高野槙)の四木を停止木(後、享保六年に鼠子を加えて五木となる)として、その伐採を厳禁した。この適用は明山(住民の自由な利用を許された山林)だけでなく、入会地の林野・個人の林にまで範囲が拡大されていった。さらに享保五年(一七二〇)には栗の伐採を禁じ、同六年に鼠子を留木に指定、翌七年には松を加え、また、田畑に対する制限と取り締まりを強化した。
 翌八・九年には従来よりさらに徹底した統制と改革が実施された。それは第一に、山村氏および木曽谷中住民に与えられていた山林利用の既得権の大幅な削減であった。具体的には、山村氏が家康以来受けていた御免白木五〇〇〇駄の原木を雑木に切り替えられ、谷中村々へ与えられていた御免白木三〇〇〇駄(元は六千駄、宝永六年に半分の三千駄は金二百両に切り替え)も材種・規格を格下げされた。さらに木曽でとられてきた木年貢は廃止され、一般の年貢として扱われるようになった。ついで従来からの個人持ち百姓控林を止めて、これを村預りとする処分がとられたことである。この村預けになった百姓控林を後に「享保度林」と呼ぶようになった。
 統制と改革の第二点は、尾張領が木曽谷村々への民政の直接的支配強化に重点を置いたことである(近世林業史の研究・岐阜県史)。